ここのところ、土地宝典(ここをクリック!)とにらめっこしながら、地名について調べものをしています。
かといって、仕事ももちろん、家でもこもりっぱなしでは、散歩のない閑人になってしまいますので、おでかけしました。
地元の資料確認で瀬谷センターに立ち寄ってから出発。
瀬谷センター近くに架かる歩道橋からは厚木街道の先に富士山が望めます。
風が強い日は、大きな通りは避けて、今回のように住宅街の道をたどると風はほとんど気になりません。
瀬谷駅前の整備は着々と進み、横浜信金わきの敷地もほとんど更地になりました。
瀬谷駅から境川に向かうと、河岸段丘らしい坂道を降りていきます。
大門小学校のわきには、この一帯が水田だったころの、畦と水路の名残があります。
横浜市瀬谷と大和市深見にかかる人道橋「入村(いりむら)橋」。
どちらが「入」で、どちらが「出」なのか、名付けの由来はわかりませんが、ここで河川改修された境川が、昔の姿を残して大きく蛇行しています。
昭和30年代の地形図では、この上流に「深瀬橋」下流に厚木街道の「境橋」に橋があるのみ。
この大きな蛇行と、大門川の流入でよく出水したことから排水ポンプ場がありました。
上流部にある瀬谷本郷公園は遊水機能もあるのかと想像できますが、最近の異常豪雨の頻発で川幅を広げる再改修工事が進んでいます。
相鉄線を渡ります。
すると、参道わきに寛政3年(1791)の「相模国十三座之内深見神社」の社号標が建っています。
延長5年(927)に完成した延喜式神名帳に記載された神社であることがわかります。
参拝を終えて、深見小学校の裏手を通ります。
次に、高圧鉄塔の下に造られた遊歩道をたどっていきます。
それにしても、あの高い鉄塔をひょいひょい身軽に登って行く点検の人たちって、すごいなぁ!と思います。
じきに、地下化された相鉄線の地上部分に設けられた遊歩道へ出ます。
大和駅に向かって進むと、やがて「図書館城下町」という大和市のランドマークとなった「シリウス」の建物が見えてきます。
そのすぐ近くには、時代がとまったままの店舗もあったりして、いい感じです。
シリウスは、コロナ禍がはじまった当初、利用制限が厳しかったものの、今はほとんど通常営業で、特に読書や学習する青少年で埋め尽くされています。
メタ坊も含む高齢者ばかりの目立つ瀬谷図書館との距離感がハンパありません。
ゴールの大和駅は、もう目の前です。
こんな看板が貼られているなんて、若い人がたくさん住み始めているんですね。
ところで「延喜式」って、どんなの?というと・・・
国会図書館デジタルコレクション(引写し本)で探してみました。
全国 3,132社、うち相模国は大1・小12となっています。
深見神社は、その小12座のひとつで、朝廷・天皇と深いつながりを示しています。
また、平安時代中期(930年代)につくられたとされる漢和辞書(いわゆる百科事典のようなもの)「和名類聚抄」の中には、国名・郡名・郷名が記されていて、深見の名が見えます。
これを見ただけでも、朝廷に使われる地名は「2字」が決まりだったことがわかります。
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