この辺りの藤沢市西俣野周辺は、小栗判官照手姫の伝説(ここをクリック!)に彩られています。
藤沢市図書館で見つけた「西俣野地誌」に、
『左馬大明神は、もと小栗塚508番にあった当時は神礼寺持であった。どんな理由か、明らかではないが現在の位置に移築された。祭神は源義朝である。護符には左馬大明神御社守護。掛軸には南無佐間大明神、土地明細図には佐波明神とあった。氏子では「大明神」と呼んでいる。左馬大明神の建立推定は元禄15年(1702)である。左馬、佐波、鯖。佐間、佐婆と表現しているが、何故だろうか、こんな疑問が起る。語源から研究する必要もあるが、定着した現在ではこれを変えることは困難であろう、特に西俣野のことをみるとムラ人は大明神と呼んでいる。この呼び方は和泉にもある。』
と記載されています。
これまでのサバ神社と比較すると、神社というよりも、地域で守られている「祠」というイメージに近いもので、今から35年前に訪れた際、花や供物を捧げに来ていたお婆さんに「この祠は何ですか?」と尋ねると「サワノカミサマ」と答えられていたのが印象的でした。
横浜のキニナル情報が見つかるwebマガジン「はまれぽ.com」には、こんなレポートがありました。
「さば神社」がやたら横浜にあるのはなぜなのか?知られざる理由を徹底調査!
前編は、泉区の5社と瀬谷区にある1社(ここをクリック!)
後編は、大和市の2社と藤沢市にある4社(ここをクリック!)
藤沢市史研究(1999.3)という冊子に、「サバ神社を考える集い」報告というかたちで、3人の郷土史家の方による地域研究の発表が記録されています。
その中で、これまでの12社のほかに、東俣野村にもサバ神社があったということと、飯田神社は上飯田村北部の柳明にあったサバ神社が合祀されたものだとあります。
また、七サバまいりについて、藤沢市史には、今田・高倉・上和田・橋戸・上飯田・泉鍋屋・泉中宮とあり、大和市史には、今田・高倉・上和田・下和田・橋戸・上飯田・下飯田、また橋戸の由緒書きには、上和田・下和田・橋戸・下飯田・泉鍋屋・泉中宮・泉神田とあるようです。
おまいりの伝承としては、年寄りが子どもを背負って、正月1日に七社を巡ると子どもが流行病にかからないといわれていたそうです。
また、祭神には、たいがい一般的な神をまつるものなのに、義朝や満仲を祭神とするのは余程の因縁がなければありえないということから、義朝謀殺に関連して、最後まで伴にいた渋谷金王丸の一族・渋谷氏が祀ったというものと、義朝を裏切り湯殿に誘い入れ殺害した長田忠致の一族の後裔がこの辺りを拝領した際に領民感情を配慮して祀ったというものです。
それらを勘案して、暴れ川である境川を鎮める神として古来から「沢の小祠」があったものに、そのときどきの勧請者の願いや事情により祭神として招き入れ、文字も「厄病退散」の意味に符合するものをあてたのではないかとも語られています。
疫病(新型コロナウィルス)の無事な収束を願って、七サバ参りならぬ、十二サバ参りの十二社め、最後のサバ神社。
なお、この十二サバ参りは、3月初めに集中的に参拝したもので、コメントは1年がかりとなりました。
すべてコメントできたものが少なく、かなり下書きのまま保存されているものがあるので、やっと一件ひと区切りをつけたといったところです。
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ここからは余談です。
平安時代末期、後三年の役に源義家のもとに参陣して戦った鎌倉権五郎景正が開発した大庭御厨の内に俣野があり、景正はその俣野に大日堂を建立しました。
源義家の子孫・頼朝が石橋山で旗揚げした際には、有力豪族・大庭景親とともに平氏方として参戦した俣野五郎景久でしたが、ついには木曽義仲に追われた平氏に従って加賀国(石川県)篠原合戦で討ち死にします。
そのため、尼となった景久の妻が大日堂の荒れ果てていくのを愁いている、と聞きつけた三浦義澄は「景久は反逆の者とはいえ、景正は源家の忠士」と源頼朝の命を受けるかたちで、堂を修復し、灯明料として田畑を寄進します。
その後、鎌倉の征夷大将軍守邦親王の執事・俣野五郎景平の弟は、時宗遊行二世・他阿真教の弟子・呑海となり、西俣野に道場を開いたのち、遊行寺(藤沢山無量光院清浄光寺)を開山します。
そのあたりから小栗判官・照手姫の説教説話が日本全国に流布され、近世には、瞽女(ごぜ・女性の盲人芸能者)による村々への門付巡業へと発展していきます。
西俣野には瞽女淵と呼ばれるところに供養碑が建っていることも何か由来がありそうです。
「一遍聖絵」には、時宗の開祖・一遍上人にさまざまな人が帰依していく様子が描かれています。
どんな経典も、物も、何も必要とせずに、ただ「南無阿弥陀仏」と唱え、念じるのみで仏になれることの教えを広めるために全国へ遊行します。
『因果応報』の理からどの宗派にも救いが得られなかった人々にとって、土地や家、身分や職業、美醜や障害・病者の別なく救われるという思いは、如何ばかりだったのでしょうか?
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