散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

はかない○○○

2009年10月20日 | ☆たまに修行
○○○に入る連想言葉。下世話ばなしが好きな私のようなおじさんなら、当然「パンツ」か「パンティー」と答えるだろう。これを「靴下」と答えるのは、石田純一さんか東尾理子さんあたりだろうか?「いのち」とかに置き換えると、いささか宗教的であり、哲学的になってくる。とにかく、国内における年間の自殺者が3万人を超えるのが当たり前になってきたという。最近では、作曲家の加藤和彦さんがわざわざ軽井沢のホテルまで行って、首を吊って自殺した。うつ病の治療に通っていたとのことで、作曲を依頼されていたが、まったく曲が書けないというのが動機になったようだ。呪術にしても、宗教にしても、その根本には「病」と「死」の苦しみや恐れから、どのような術で逃れるかを、キリストなり、釈迦なり、モハメッドなりが、神託若しくは悟りとして説き、あるときは呪文を唱え、技を披露して、奇跡を起こして見せたりして、敬虔なる信仰によってのみ、苦しみから解放されると教える。
そんなとき、法事にあたって霊園が手配した浄土真宗のお坊さんから「南無阿弥陀仏・往生決定」のお手製守り札をいただいた。解説に曰く「困ったときに、このお札に向かい、携帯電話に話しかけるように、「おやさま、おやさま(阿弥陀仏のこと)」と話しかけ、願いをつぶやくと、阿弥陀様から見えない救いの手が伸びて、願いを叶えてくれるんだそうだ。私の実家は日蓮宗なので、専らお題目「南無妙法蓮華教」を繰り返し唱えるだけ。曰く「法華経には仏教唯一無二の優れた真理が書かれている」と教わった。しかしそれとて読んだことがない。とにもかくにも、私流には、生・老・病・死の四つの苦しみは、生命を持つものすべてにあり、その苦しみをありのままに受け入れることにより、精神は苦しみから解放される。そして、健康で元気なときはもちろん、死に臨んでも、愛を分かち合おうとすることが大切なことだ。と、どの宗教でも結論づけているのではないかと、勝手に解釈している。「うつ」を病気と決めつけるから、それを治すクスリや注射、医者に頼ることになり、金のある人がいくら金を積んでも治らないから、将来を悲観することになる。世の中、プラスとマイナス、陰と陽、苦あれば楽あり、またその逆もあってバランスがとれている。ケセラセラである。
よく、昔は隣近所だれでも貧乏で、持ちつ持たれつ、分け隔てなく、屈託なく、明日は今日よりマシになるだろうという漠然とした希望をみんな持っていたといわれる。今は、みんななんとなく満ち足りていて、ささいなことでストレスを感じ、不満を爆発させる。そして老いていき、気づくと過去の人になっていることが「うつ」へのきっかけとなる。私は30代頃から年下の人に対して「おじさん」と自分を呼んだから、この歳で「おじさん」と呼ばれてもまったく気にならない。そろそろ「じじい」と自称しようかなと思うが、50代前半では「すけべじじい」がふさわしいかな?と、どんな状況で使うか目下検討しているところだ。

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