散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

遠望・富士山2020.09.10(瀬谷区よもやま話1)

2020年09月11日 | ☆撮!富士 #Fuji

たまには真面目な話をしようと思います。
メタ坊の住む町「瀬谷区」は、昭和44(1969)年10月1日に戸塚区から分かれて新設された横浜市の行政区です。
もとの戸塚区は、昭和14(1939)年4月1日に鎌倉郡戸塚町、川上村、豊田村、大正村、中和田村、中川村、瀬谷村、本郷村の1町7村が横浜市に編入されて誕生しました。
このときの瀬谷村の全部と中川村の一部が瀬谷区の区域です。
横浜市は、関東大震災、横浜大空襲など市街地が壊滅するたびに、街並みを整理し、都市基盤を整えるため「町界町名地番整理」という方法で町を再生してきました。
昭和30(1955)年、市中心部の進駐軍用地接収解除が始まり、翌年には政令指定都市として、自治権が強化されると、昭和33(1958)年の横浜開港100周年を迎えるにあたって、人口急増に対応したさまざまな都市基盤整備計画の策定を進めます。一方、国では、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催が決まり、日本の戦後復興や科学技術先進国であることを世界に示すという理念のもと、首都高速道路や新幹線建設など巨大プロジェクトがはじまります。
その一つに「町名・地番の混乱により、郵便物の配達が困難であるなどの社会的な問題」を解決することが検討され、「町名地番整理促進法」をもって、昭和36年から5か年計画で、さまざまな都市で地番整理を試みたのち、昭和37(1962)年5月10日「住居表示に関する法律」が公布施行されます。
これを受けて、横浜市では、昭和40(1965)年に3区4地区で住居表示事業を開始します。
瀬谷は早くから良好住宅適地として着目され、戦後、ベッドタウンとして急速に住宅建設が進められました。
しかし、編入前の瀬谷村大字瀬谷が瀬谷町になり、そのまま土地地番を引き継いだため、広い面積に9,000番台の土地地番があり、また、中和田村大字阿久和の一部は2,000番から4,000番台で阿久和町となり、住宅建設が進むにつれて、地番も住所も混乱していきました。
なぜ混乱が起こるのか、それは別の機会にお話します。
瀬谷区新設後の昭和44(1969)年11月、瀬谷区の連合町内会長連名による町名地番整理実施の陳情が出されます。
瀬谷区における住宅建設の特徴は、公営住宅を除けば、畑地や山林を残しながら小規模な開発が多いこと。
住居表示制度は、土地地番をそのままに建物に別の番号を付けて表示する制度であることから、瀬谷区への住居表示実施を見送り、昭和49(1974)年8月、北町、目黒町、五貫目町の実施を皮切りに、新町を設定し、土地地番を1番から振り直すという町名地番整理事業を進めました。
平成12(2000)年、宮沢町での実施を最後に事業は終了します。

瀬谷区の地図に「町名地番整理」未実施部分に色をつけてみました。
黄色は「瀬谷町」で、青色は「二ツ橋町」です。
続きは、またの機会に・・・


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