七ツ木神社のある一帯は、昔の文書に「七木」「七次」と表記されていますが、「ななつぎ」という地名であることは、戦国期まで遡れるようです。
神奈川県神社庁のホームページには「文禄年中渋谷義重崇敬厚かりしと伝う。文政9年再建。大正13年氏子中にて拝殿改築す。相模風土記に七ツ木郷鯖神社と記せるは当社なり。往古より鯖神社と称せるを明治初年七ツ木神社と改称す。明治6年村社列格。」とあります。
境内は広く、裏手には高倉中学校が建ち、八海山、御嶽山、三笠山などの講中があることを示す石碑や庚申塔、養蚕供養塔、ほかに清瀧不動明王碑やさまざまな石祠が境内に点在しているのは、近隣の開発に伴って移転されたものと思われます。
さて、七ツ木村のあった高座郡は、西境を相模川、東境を境川に囲まれた地域で、小田原北条氏支配の頃は所領役帳に鎌倉郡ほかと合わせて「東郡」と称されました。
渋谷村の土地宝典(地番反別入り図)には、境川に沿って、北(左)から上和田、下和田、高倉の大字にひとつずつ(赤丸)サバ神社が配されていることがわかります。
その南(右)に隣接して六会村の今田が続き、ここにもサバ神社があります。
境川を挟んで、対岸には北から瀬谷村、上飯田村、下飯田村が続き、それぞれにサバ神社があり、合わせて7社を巡るのが「七サバまいり」といわれています。
藤沢市の郷土研究の中に、古代、タタラ場があったところにサバ神社があるという論考がありました。
相模湾の浜辺から良質の砂鉄が得られ、藤沢の諏訪社のおよぶ地域において、南向きの良風の吹く場所で自然製鉄をしていたのではないかというのです。
故にサバ神社は、本来南向きということです。
そういえば、5月、一定の南風が吹くころ、相模凧といって、ウナリを付け、子の名前を大書した凧を揚げるのも、この辺り特有の習わしです。
ついでにいろいろ調べてみると、万延元年に水争いが起こり、関係諸村が藤沢大久保町名主を勘定奉行に訴えるという事件があったそうです。
江戸時代、寄り合っての謀議はご法度。
訴えを起こしたということは、その関係性をつくる前提として、共通の神を祀り、それぞれが詣でる形で連絡を取り合ったと考えると面白いですね。
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疫病(新型コロナウィルス)の無事な収束を願って、七サバ参りならぬ、十二サバ参りの十一社めサバ神社。
なお、この十二サバ参りは、3月初めに集中的に参拝したものです。
ご利益があったというか、霊験あらたかというか、家族からも、同僚からも、またさまざまな地域活動でご一緒している仲間からも、新型コロナウィルスに感染した人は、ひとりも出ていません。
「新しい生活様式」という造語がつくられましたが、これはあくまでも「非接触」を基準にした生活様式にあった製品を売り込み、資本をにぎる経営者・支配者・権力者が意図的に語るものを、マスコミが検証もせずに追随して煽っていると思えて仕方がありません。
なぜなら、GoToが経済を助けると煽られれば砂糖に蟻が群がるように殺到し、外出自粛が医療崩壊を防ぐと煽られればピタリと家にこもり、免罪符とされる買い出しと称して、やたらに出かけてはレジに長蛇の列をつくるのも、庶民気分としては、ごもっともなことかもしれませんね。
マスコミの扇動を鵜呑みにして行動しているのは、ただだれもが「元の生活様式」に戻れることを願っているからです。
そんな時間稼ぎの中で、感染症に対応する医療制度は「新しく」なっているでしょうか?
どちらかといえば、これまでと何も変わらず「温存」のみにこだわった政策をとっています。
だとすれば、感染を恐れて閉じこもるのではなく、感染しないよう自己防衛を図りながら、いつもと変わらない生活を続けて、インフルエンザと同様に新型コロナウィルスのいる世の中に慣れてゆくことが大切だとメタ坊は思っています。
交通事故による死亡率は、新型コロナウィルス感染による死亡率よりも「高い」のに、それを恐れて家から1歩も出ない人はどれくらいいるのでしょうか?
自分のコミュニティー(家族・同僚・仲間)の中で、お互い感染「した」「させた」ことを許せるか否かを判定して、互いに許せない相手とは、マスクを外す時間や場所を絶対に共有しないようにすることを今は徹底することが大切だと思っています。
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