
地名は、台村町(横浜市緑区)。
もとは三保町と同じ、榎下村が8か村に分かれたうちの、臺村といった。
明治の町村合併で、新治村大字臺となり、昭和14年横浜市に合併される際、神奈川区に臺町があったことから「臺村町」となる。
ちなみに「臺」は「台」の旧漢字だ。
曹洞宗。開創は、小机城主四代目笠原弥次兵衛とし、天正元年以前に黄檗宗の寺として縁起書に記されているという。
後北条氏の頃、家臣の笠原氏が城主を務め、小机領の村々に寺を建立して整備したというから、弘聖寺もその一つに考えられる。
この寺も分かり難い場所にあるものの、その寺域の広さと、本堂の大きさには驚いてしまう。
大ぶりのシダレザクラは見事だ。
寺の本尊は、釈迦牟尼佛。二尺五寸の坐像という。
過去二度の火災にみまわれ、秘仏・薬師如来の由来は不明だ。
平成16年に落成した本堂は、まだ新しい。
本堂に入って見上げると、格子天井に日本画による花鳥風月、四方に龍、まん中に仏画が描かれている。
写真に写っている線(糸)は、須弥壇の厨子に安置されている薬師様の指先から本堂正面の回向柱へ、五色の手綱(善の綱)に繋がっている。
参拝する際に、この手綱に触れながら本堂へ入っていく人の多いことに気付かれた方も多いはずだ。
昔は、鬱蒼と樹木が生い茂った、昼なお暗いところにお寺が建っていたというから、隔世の感がある。
山門も、鐘楼もないのは、その名残なのか、宗派のせいなのかわからない。
本堂の前欄干の奥にきれいな撞鐘がある。
参道から境内地に入ろうとする左手には、庚申塔が建っている。
碑文には、貞享年間(元禄の前)に修造したとあり、「同行貳拾二人」と彫られているところから、当時檀家が22軒あったことを示しているのだろうか?
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