『君の膵臓をたべたい』(2015)は年末年始に日本に帰省中に本屋で見かけたので、同著者の『また、同じ夢を見ていた』と一緒に買いました。文庫も出ているとは知らず平積みになっていた単行本で買ってしまい、ちょっと後悔していますが、感動的な作品なのでまあ良しとしましょう。
病院の待合室で偶然拾った「共病文庫」がきっかけで高校生の「僕」はクラスメイトの山内咲良と「仲良し」になります。その「共病文庫」は膵臓を患い余命わずかの彼女の秘密の日記帳でした。家族以外で唯一彼女の秘密を知ることとなった「僕」は以来彼女に振り回されることになります。読書が好きで、他人と関わることのなかった「僕」は明るく奔放な彼女の「死ぬまでにやりたいこと」に付き合ううちに彼女との会話や彼女と過ごす時間を楽しいと思うようになり、彼女の存在をかけがえのないものと感じるようになります。
小説の大半は僕と彼女の行動ややり取りで占められ、二人のおかしな会話を楽しむことができます。
そして唐突に来る終わりは、予想されていた形とは違い、現実の容赦なさが「僕」に突き付けられ、改めて生とは何かについて考えさせられます。葬式には行かなかったけれど、彼女から借りた本を読み終えて、それを返しに行った時に彼女の残した「共病文庫」を見せてもらい、「僕」の自己完結の壁は決壊し、ため込んでいた感情がすべて溢れ出してしまいます。こうしたかけがえのない体験を通じて「僕」は生まれ変わったかのように他人との関りを大切にするようになります。
泣き所は咲良が何を考え思っていたかが分かる「共病文庫」と遺書の部分ですね。「僕」と彼女は恋人にはならなかったけれど、深いところで気持ちが通じ合っていたことが分かるシーンです。
会話の中で特徴的なのは、名前ではなく【根暗そうなクラスメイト】くんとか【仲良し】くんなどと呼ばれていることです。最後の方で「僕」の名前が志賀春樹(小説家?!)であることが明かされますが、名前が伏せられていたことに意味があるのかどうかはいまいち分かりません。「僕」が咲良を決して名前で呼ばず「君」としか言わなかったことと関係があるのかと思われます。呼ぶ名前に意味が付与されることを恐れた、ということでしょうか。「春樹」でも「咲良」でもなく、「友達」でも「恋人」でもなく、「君の膵臓をたべたい」という言葉に象徴されるような名前の付かない絶対的な一人称「僕」と二人称「君」の絆を描いたということかもしれません。