質素な毎日☆ひとりごと

主婦 斜め上からみる雑感いろいろ。

三河国 国分寺跡 国分尼寺跡

2017-01-10 10:09:03 | 日記
ひと月ほど、趣味の歴史旅?をしてなかったので、もううずうずしていました。

でも、寒いので あまり長時間外にはいたくないし、寒いので1人では尚更寂しいので、今回も夫をうまく丸め込んで同行。

今年 一発目は 奈良平安時代に置かれた三河国の国府 国分寺 国分尼寺を探しに行ってみた。

愛知県豊川市にある。

まずは 国分尼寺の側に建つ 三河天平の里資料館へ。そこで、ざっくりと予習。

それから 国分尼寺跡と国分寺跡へ。




国分尼寺跡


国分寺跡

国分尼寺は 中門を復元してかなり整備されてますが、国分寺跡は 全く整備されていません。
それどころか、どうやら数年前までは 跡地には民家もたくさんあった模様。立退くタイミングで市が買い上げたと思われる土地も。

国府跡も 車でとおったのですが、こちらも住宅が立っていて、たぶん 発掘調査もあまりできてなさそう。

1300年前に国分寺 国分尼寺が建てられたとしても、その後の歴史のながれで、建物は焼失したり 国府も消滅して、その跡地には 別のお寺や住居が建ってしまうようです。

そんな歴史のながれのなかでも残るものは、神社と地名。

国分寺跡ちかくには 八幡神社があり、こちらの創建は白鵬年中 大分の宇佐神宮から招いたのだとか。

650年頃?八幡神社創建
701年 大宝律令
701年 三河国国司 許勢朝臣祖父 の初見
702年 持統天皇 三河行幸
730年頃?国府の整備進む
741年国分寺建立の詔

年表をみると、まず神社を持ってきて、その後大宝律令とほぼ同時期に国司がちゃんと赴任しているようです。
そして、その翌年に持統天皇が三河に。
ルートは 奈良→伊勢→伊勢湾を船で伊良湖岬を目指し、さらに三河湾を船で進み、国府近くの御津というところで下船したとか。帰りは陸路。

持統天皇が三河に来たということが 驚きでした。
そして、その目的は謎。ただの観光ではあるまい。なにか目的があったことは確か。何らかの軍事目的か?

もうひとつ驚きだったのは、三河の国というのは 三河ともうひとつ 穂の国 というのがあったらしく、古代の律令制度以後 三河に合併されたとか。

そうなると、ちょっと待ってください。今まで 三河の語源は 三河地方にある三本の川があるから三河という、本居宣長説が通説だったけど、それは間違いだったということ? なぜなら その一本の豊川は穂の国に流れている。

じゃぁ。何故三河? と 昨日気になって調べまくってました。そして、自分なりの結論。

三河 まず音の ミカワ とする。
例えば、美濃は かつて、三野や御野 と漢字があてがわれたことから、ミカワも 音を漢字で当てた。

古代の三河が、今の西三河地方ならば 川は矢作川。矢作川の名前は 日本武尊が矢作川で矢を一万本作ったことから矢作川になったという説が、矢作川になる前は川の名前はミカワ(御河)と呼ばれていたのではないか?

とすると 合点がいく。 でもどちらにしても、大和政権がつけた名前のようか気がする。たぶん。大和政権以前に 何とか国とかあったんじゃないかな。たぶん小国だろうけど。

などと、古代のことを考え出すと、楽しいけどなかなか答えが見つからなくていらいらします。

とにかく この豊川市の国府 国分寺 国分尼寺は 眺めていると、1300年前の情景が何となく浮かんでくる。

三河湾の御津という港がさかえ、田畑が広がり、国分寺や国分尼寺の壮大な寺院が誇らしげに建っていたのではないでしょうか。

そのイメージのイラストが 三河天平の館で購入した資料にあります。



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