老後の日々

果物に野菜作り等、
今では趣味にして気間々にやっています。

体験を重ね重ねて今原点に

2006年12月04日 | Weblog
祭りなど、楽しい思い出は一度もなかった私が、ピカピカ輝く花輪が並べられ大勢の人の中で、母のそばにいた想いが、かすかによみがえる。それが、村人皆んなで向えてくださった父の遺骨でした。

車からおりた位牌を、母は背中に妹を背負い、5歳だった私の手を引き、位牌を手に3キロほどはなれた村に歩いた、そこには姉達も居たはずだが私には何の記憶もない。徳島県勝浦郡上勝町八重地勝浦川支流の源流点。

父と母が出会い間もなく長男が生まれたのだが、母の兄が子供がなく母達も若かったこともあって、養子に出したのですが、その後は、女の子ばかりが4人5人目に私が生まれた後、父は召集を受ける。軍隊で怪我があり少しの間、帰っていたらしく、妹が生まれる前に2度目の召集、父は末娘との対面も果たさないまま遺骨ての帰宅でした。

上2人の姉は働きに出て行き、家族が揃うのは年に数回 母は、私達が目を覚ましたときには仕事に出ていて、夜は遅く帰り簡単な夕食後内職にかかるので、私達の世話は姉達の役割だったようです。6,3、3制になったこともあり、母と姉妹5人の生活はしばらくつづきました。

どんなに小さな物でも5等分して食べたのですが、幸い、上の姉が器用だつたこともあり分割するのはいつも姉の担当で苦心しながら分けていた姿を思い出します。他の家庭を訪問したとき、テレビドラマの中でも、ご夫婦の会話の中に時々耳にする言葉があります。

それはクラス50人中30人以上の人が使っている物なら、(みんな) と言う言葉を使うこと、みんな持っているのに、この子に与えないと(かわいそう)こんな言葉です。物がなければないように、貧しい家庭はそのように育ってきているのです、諦めとは意味が違うと思います。三度の食事のような物でしょうか。

私はある時、姉達は働きに出て家には居なくなつています、妹は冬休みの間子守りに出て母と二人暮らし、外に出なければならないのに外は雪。素足ではさすがに厳しいが母と一緒に行かなければいけないと思っているとき、弱音は吐かない母であったが、この頃にはだいぶ気が弱くなっていたのだろう。長い年月 ただ一度、この雪の中(可哀想)だ・・

こんな言葉を聞いてしまいました。それまで、他人様からは何度も聞かされた言葉ですが母から聞いたときは、張り詰めた気か゛抜けたような、とても自分が惨めに感じたことを思い出します。私は子育てに家内にも,この言葉は使わないように言てきました。良かったか、悪かったのかは分りません、ご意見が有りそうな気がしますが・・・  

物を与えるのも49番50番でも悪くはないと想います。我慢と辛抱の違いは・・・・我慢しなさい。この言葉をよく聞きますが我慢とは われ、おごりたかぶる、自分の器に我慢を積んでゆくと、やがては一倍になります。一倍になった物は溢れてしまうしかないのです。

誰が押さえても駄目になってしまいます。一方、辛抱は、身体に心の棒を作ることでないでしょうか、辛抱、心で抱える 辛抱を重ねるたびに棒は太くなります、辛抱することとは、どんな悲しみにも、苦しみにも、絶えられる信の人間をつくることであると思います。