今朝、四泊五日の西安から帰国された途中、周非さんが拙宅に立ち寄られました。
その際、西安交通大学での周さんの講演の際に寄せられた中国の大学院生、先生方の質問を三点、答えてほしいと言われましたので、このブログでお答えします。もちろん、際立った難問にして、根源的な質問ですが、これに私見をご披露しましょう。
第一点、
物語論(ナラトロジー)と〈第三項〉論との相違
両者は同じ〈語り〉論でも、原理論、グランドセオリーが異なるため、必然的に〈読み〉の方法論が異なり、結果、〈読み〉の実践は随分と違ってきます。〈第三項〉の捉え方は物語る行為を分析し、構造化するだけでなく、その〈語り〉をあるいは構造分析をメタレベルでもう一度、捉え直します。それは大森荘蔵の言い方を借りて言うと、「生活上の分類」で捉え、構造化するだけでなく、これを「世界観上の真偽の分類」と併せて捉えます。
すなわち、双方とも読書行為である〈語り―語られる〉相関を問題化し、構造分析をするのも同じです。双方とも、〈語る行為〉に着目し、〈語り―語られる〉相関を読むのです。しかし、〈第三項〉論は語られた出来事、その〈語り―語られる〉相関のみならず、その相関のメタレベルで捉えるのです。〈語る行為〉による出来事は主体のパースペクティブに拘束されているため、その主体による真実であっても、それはその主体の一回性に過ぎないのです。別の主体には別の出来事が現象します。〈第三項〉論はこの〈語り〉の虚偽性を捉えるのです。すなわち、我々の世界観が「生活上の分類」でなされていることを新たに「世界観上の真偽の分類」で捉え直すのです。
ナラトロジーは「生活上の分類」しかありません。自然主義リアリズムを虚偽とするまなざしは〈第三項〉を必要とします。マルクス・ガブリエルとの共通性は〈第三項〉論でなければあり得ません。
第二点、
芥川文学とはいかなることか。
これについては丸山義昭さんが長岡で主催する講演会・研究会で、九月二十九日にお話しし、画像と共にブログで公開します。
第三点、
「客体そのもの」は存在するのか、しないのか。
これは言い方に注意が必要です。存在するかしないかは、常にそう捉える主体を前提にすることが肝心です。明確に前提にして、これを考えてみましよう。客体そのものは捉えられないけれど、その捉えられないという認識を前提にして、客体そのものは存在します。何故なら、主体によって捉えている客体は主体では永遠に捉えられない客体そのものがあるから、主体の捉えている客体もあるのです。これは例を出して考えればすぐわかります。
我々は『三四郎』が読めるのは、誰も『三四郎』そのものは読めないけれど、『三四郎』そのものがあるからです。客体そのものはあるけれど、永遠に捉えられません。客体そのものとは単に客体のことを言っているのでなく、捉えている客体の外部、〈向こう〉なのです。「そのもの」という観念、それ自体が一つの世界観を示しているのです。
主体と客体と客体そのものという世界観、この〈第三項〉を介在して、世界を捉えようというのが、〈第三項〉論です。
ちょっと難しかったかな。
その際、西安交通大学での周さんの講演の際に寄せられた中国の大学院生、先生方の質問を三点、答えてほしいと言われましたので、このブログでお答えします。もちろん、際立った難問にして、根源的な質問ですが、これに私見をご披露しましょう。
第一点、
物語論(ナラトロジー)と〈第三項〉論との相違
両者は同じ〈語り〉論でも、原理論、グランドセオリーが異なるため、必然的に〈読み〉の方法論が異なり、結果、〈読み〉の実践は随分と違ってきます。〈第三項〉の捉え方は物語る行為を分析し、構造化するだけでなく、その〈語り〉をあるいは構造分析をメタレベルでもう一度、捉え直します。それは大森荘蔵の言い方を借りて言うと、「生活上の分類」で捉え、構造化するだけでなく、これを「世界観上の真偽の分類」と併せて捉えます。
すなわち、双方とも読書行為である〈語り―語られる〉相関を問題化し、構造分析をするのも同じです。双方とも、〈語る行為〉に着目し、〈語り―語られる〉相関を読むのです。しかし、〈第三項〉論は語られた出来事、その〈語り―語られる〉相関のみならず、その相関のメタレベルで捉えるのです。〈語る行為〉による出来事は主体のパースペクティブに拘束されているため、その主体による真実であっても、それはその主体の一回性に過ぎないのです。別の主体には別の出来事が現象します。〈第三項〉論はこの〈語り〉の虚偽性を捉えるのです。すなわち、我々の世界観が「生活上の分類」でなされていることを新たに「世界観上の真偽の分類」で捉え直すのです。
ナラトロジーは「生活上の分類」しかありません。自然主義リアリズムを虚偽とするまなざしは〈第三項〉を必要とします。マルクス・ガブリエルとの共通性は〈第三項〉論でなければあり得ません。
第二点、
芥川文学とはいかなることか。
これについては丸山義昭さんが長岡で主催する講演会・研究会で、九月二十九日にお話しし、画像と共にブログで公開します。
第三点、
「客体そのもの」は存在するのか、しないのか。
これは言い方に注意が必要です。存在するかしないかは、常にそう捉える主体を前提にすることが肝心です。明確に前提にして、これを考えてみましよう。客体そのものは捉えられないけれど、その捉えられないという認識を前提にして、客体そのものは存在します。何故なら、主体によって捉えている客体は主体では永遠に捉えられない客体そのものがあるから、主体の捉えている客体もあるのです。これは例を出して考えればすぐわかります。
我々は『三四郎』が読めるのは、誰も『三四郎』そのものは読めないけれど、『三四郎』そのものがあるからです。客体そのものはあるけれど、永遠に捉えられません。客体そのものとは単に客体のことを言っているのでなく、捉えている客体の外部、〈向こう〉なのです。「そのもの」という観念、それ自体が一つの世界観を示しているのです。
主体と客体と客体そのものという世界観、この〈第三項〉を介在して、世界を捉えようというのが、〈第三項〉論です。
ちょっと難しかったかな。
つまり、第三項理論は既存の「語り-語られる」相関(プロット)を捉えるだけではなく、何故このような相関関係になっているか(メタプロット)を更に問題化すると理解してよろしいでしょうか。
教えていただければと思います。
よろしくお願い致します。