昨日のお昼、周非さんから、拙稿の「近代小説の神髄―「表層批評」から〈深層批評〉へ―」が中国の雑誌、『魯迅研究月刊』に周非翻訳で掲載されると知らせが来ました。発表は十月の予定、魯迅研究の権威北京大学の呉暁東氏の強い推薦だそうです。
以前の事ですが、呉暁東氏からは今年六月、六つの質問を頂き、これを通訳を通しオンラインでお答えして〈第三項〉論の強い支援者呉暁東氏の質問は大変実りあるものでしたが、今回の拙稿掲載予告を喜んでいます。
今年三月に発表したこの拙稿は、近代文学の読みの原理であるポストモダン批判、ポスト・ポストモダンの立場から論じたものであり、筆者はポストモダンの昏迷からの脱却を使命としています。
ポストモダンの昏迷からの脱却、その読みの根幹、原理を捉えるには、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』や量子力学に関するアインシュタインとボーアの対話、あるいは「ヨハネによる福音書」、さらに決定的だったのは大森荘蔵の決定的哲学『思考と論理』の哲学でした。ここに収録された「言語と世界」のとくに「要約」の言葉か決定的でした。
これら歴史書・聖書・哲学書を対照し、「世界は言語と独立して存在していない」ならば、「世界は言語で捉えられ、その外部は「無機的な世界」である」、このことを論の前提にしました。この「無機的な世界」は私見では〈第三項〉です。
現在の近代文学研究は若き日、仰ぎ見ていたはずの三好行雄・亀井秀雄・前田愛らの近代文学研究の流れは実体論、リアリズムの枠組みの限界に閉じられていていることが明らか、三好先生からは以前、筆者との論争を望まれましたが、事情があって、これを回避したままでした。これらを打破したのは蓮實重彦の「表層批評、文化研究」、カルチュラルスタデーズです。敬意を覚えています。しかし、これは文学の分野を相対化したにとどまって、その価値を取り出すことはなおざりにしたのです。それから、もう幾年月の歳月が経ちました。現在の文学研究はカルスタと呼ばれていた文化研究に立ち向かえないで、これとの原理的対立を回避したまま、通念の実体論を復権・温存させています。これが現在の文学研究です。鷗外研究もここにあります。そこで遅ればせながら、数多の作品論の後、本年度三月、ようやく、拙稿「近代小説の《神髄》」を論じました。原理に向き合えない末端の研究者ほどこれに反発するのは必須です。
こうした筆者の動きに対し、周非さんの翻訳を媒体にして中国文学研究では今回の呉暁東氏の反応がありました。日本の国語教育研究では以前より既に岩手名誉教授の望月善次の支援があった、そうした動きを梃にこれからさらに新たな動きも感じられています。それはまたご紹介します。
繰り返しておきます。
近代小説の本流はリアリズムです。そこに生命の源を置き、このモダンの思想の限界を根源から斥けた蓮實重彦氏の「表層批評」のカルチュラル・スタデーズ、文化研究です。この文学研究にさらに転換させて、〈表層批評〉に対する〈第三項論〉の〈深層批評〉があります。
これを創作の分野で明らか表現したのが、村上春樹のエッセイ『猫を棄て』、短編小説の『一人称単数』、それは「私」=反「私」と言う背理、パラドックスを鮮明にしました。村上春樹の活動の先駆には既にそもそも鷗外の三部作があったというのが私見です。
続いて、漱石以来、また三島由紀夫の小説、また『小説とは何か』があります。
また宮沢賢治の童話はこの原理に基づいています。
秋には「背理の輝き」というタイトルの『注文の多い料理店』を書いた論文を明治図書から公表しますが、これはこの「近代小説の《神髄》』から論じたものです。
ブログ、講座、ご覧いただいている方々に感謝申し上げます。
以前の事ですが、呉暁東氏からは今年六月、六つの質問を頂き、これを通訳を通しオンラインでお答えして〈第三項〉論の強い支援者呉暁東氏の質問は大変実りあるものでしたが、今回の拙稿掲載予告を喜んでいます。
今年三月に発表したこの拙稿は、近代文学の読みの原理であるポストモダン批判、ポスト・ポストモダンの立場から論じたものであり、筆者はポストモダンの昏迷からの脱却を使命としています。
ポストモダンの昏迷からの脱却、その読みの根幹、原理を捉えるには、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』や量子力学に関するアインシュタインとボーアの対話、あるいは「ヨハネによる福音書」、さらに決定的だったのは大森荘蔵の決定的哲学『思考と論理』の哲学でした。ここに収録された「言語と世界」のとくに「要約」の言葉か決定的でした。
これら歴史書・聖書・哲学書を対照し、「世界は言語と独立して存在していない」ならば、「世界は言語で捉えられ、その外部は「無機的な世界」である」、このことを論の前提にしました。この「無機的な世界」は私見では〈第三項〉です。
現在の近代文学研究は若き日、仰ぎ見ていたはずの三好行雄・亀井秀雄・前田愛らの近代文学研究の流れは実体論、リアリズムの枠組みの限界に閉じられていていることが明らか、三好先生からは以前、筆者との論争を望まれましたが、事情があって、これを回避したままでした。これらを打破したのは蓮實重彦の「表層批評、文化研究」、カルチュラルスタデーズです。敬意を覚えています。しかし、これは文学の分野を相対化したにとどまって、その価値を取り出すことはなおざりにしたのです。それから、もう幾年月の歳月が経ちました。現在の文学研究はカルスタと呼ばれていた文化研究に立ち向かえないで、これとの原理的対立を回避したまま、通念の実体論を復権・温存させています。これが現在の文学研究です。鷗外研究もここにあります。そこで遅ればせながら、数多の作品論の後、本年度三月、ようやく、拙稿「近代小説の《神髄》」を論じました。原理に向き合えない末端の研究者ほどこれに反発するのは必須です。
こうした筆者の動きに対し、周非さんの翻訳を媒体にして中国文学研究では今回の呉暁東氏の反応がありました。日本の国語教育研究では以前より既に岩手名誉教授の望月善次の支援があった、そうした動きを梃にこれからさらに新たな動きも感じられています。それはまたご紹介します。
繰り返しておきます。
近代小説の本流はリアリズムです。そこに生命の源を置き、このモダンの思想の限界を根源から斥けた蓮實重彦氏の「表層批評」のカルチュラル・スタデーズ、文化研究です。この文学研究にさらに転換させて、〈表層批評〉に対する〈第三項論〉の〈深層批評〉があります。
これを創作の分野で明らか表現したのが、村上春樹のエッセイ『猫を棄て』、短編小説の『一人称単数』、それは「私」=反「私」と言う背理、パラドックスを鮮明にしました。村上春樹の活動の先駆には既にそもそも鷗外の三部作があったというのが私見です。
続いて、漱石以来、また三島由紀夫の小説、また『小説とは何か』があります。
また宮沢賢治の童話はこの原理に基づいています。
秋には「背理の輝き」というタイトルの『注文の多い料理店』を書いた論文を明治図書から公表しますが、これはこの「近代小説の《神髄》』から論じたものです。
ブログ、講座、ご覧いただいている方々に感謝申し上げます。