黒瀨さんからコメント欄に以下のようなご質問を頂きました。
それに対するわたくしの回答と併せて再掲します。
外部領域とは何か (黒瀬貴広)
2022-07-27 13:15:02
作品の仕掛けを読む際の「外部」とは如何なるものなのかについて質問させてください。
『高瀬舟』の場合,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えた,対象人物の「喜助」そのものが〈語り手〉によって問題化されていると考えます。例えば,庄兵衛のまなざしから見れば,喜助の弟殺しは安楽死の問題に回収されています。しかし,語り手は視点人物の「庄兵衛」のまなざしから喜助を語り出す一方で(視点人物「庄兵衛」の捉えた対象人物「喜助」),それを超えた喜助そのもの(了解不能の《他者》)を,読み手には見えるかたちで問題にしています。「喜助」の直接話法には,「思わぬところを切ってしまった」とあり,弟を安楽死させようとする意図が見られません。そして,死んだ弟の晴れやかな顔は,作品冒頭の「喜助」の姿と重なるように語り手は語り出しています。このように,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えたところで,「喜助」そのものが問われるように語り手は語り出しています。
ここまでの読みが成立していると考えた時,外部とは如何なることなのかが再び私の中で疑問となります。例えば,「語り手が語り出そうとしている「喜助」そのものの領域を外部=〈第三項〉と呼んでよいのだろうか。」あるいは,「二つの世界を相対化して語る語り手の領域を外部=〈第三項〉と呼ぶのだろうか。」
このような疑問が湧いてきます。
恐らく基本的な問題なのでしょうが,私の中で十分に落とし込めていません。外部という言葉を度々先生がお使いになるからこそ,そのことの意味を知りたいと思います。お答えいただけると幸いです。
黒瀨君へ、 (田中実)
2022-07-27 23:35:07
黒瀨君へ、
ご質問にお応えします。貴君が「ここまで読みが成立していると考えた時」と指摘し、そう捉えるのは貴君にとっては尤もです。しかし、それはあくまで貴君にとってのこと、その「ここまで」は田中から見れば早計です。何がそこに欠落しているか、それは貴君自身が〈読みの仕掛け、読みの仕組み〉を読み込む作業に向かうこと、そこで、私は貴君の素晴らしい『舞姫』論の事を思い起こします。
手前みそで顰蹙を買うことを敢えて言いますが、貴君の『舞姫』論は拙稿『舞姫』論に対する貴君の読み取りの多年の蓄積による産物であり、見事です。その通り、『舞姫』を読むためには思考の枠組みの解体が驚くほど要求れるのです。
この鷗外の処女作がいかに先駆的であるか、たやすくできることではありません。貴君はこれをやってのけています。
修士論文を手直しされた貴君の『舞姫』論を読むものは恐らく、そこに貴君が重ねた「思考の制度批判」と出会わざるを得ない、格闘せざるを得ません。これが出来ない読み手は貴君の作品論から排除されます。
では『高瀬舟』では、どうでしょうか。
確かに数多の『高瀬舟』論はこれを安楽死、ユータナジーという殺人の枠組みで捉えますが、貴君はそうした〈読み〉ではありません。ならば『高瀬舟』をどう捉えるか、〈第三項〉による読み方が先にあるのではありません。〈読みの仕組み・仕掛け〉を読み取っていくこと、〈第三項〉とは何かは後から考えるのです。〈第三項〉論は便宜的な方法論ではなく、世界観認識の原形とお考え下さい。
読みは読みの実践・具体とともにしかありません。「架ける会」でも〈第三項〉を巡っての原理論の論争がなされているようですが、それは具体的な作品の読みと共に行ってください。抽象的のままでは実りはまずありません。
如何すか。どうぞ、もう一度、コメント下さい。
コメントについて (黒瀬貴広)
2022-07-28 07:38:14
お返事,ありがとうございます。
先生の言葉を受けて,私に分かったことがあります。
それは,〈第三項〉の問題が私の中で知らず知らずに「公式化」されてしまっていたということです。
『高瀬舟』で「ここまで」と述べたところが,私の読みにブレーキをかけてしまっています。それは,議論の場でも同じだと感じました。「その領域を〈第三項〉と呼んではいけない。」だとか「そのように捉えたら自己倒壊は起きない。」というような言葉は,結果的に「読み方」を前提にしてしまいます。つまり,「読み方」から逆算的に作品を捉えようとしてしまっていると考えられるのです(その「読み方」も自己の枠組みにすぎません)。なぜそうなってしまうのか。
これには2つの理由があると思います。1つ目は,「人にわかってもらいたいから。」です。私が論文・発表をする際,「人に自分の考えていることを分かってもらいたい。」という感情が湧いてきます(『おにたのぼうし』の「おにた」が「女の子」に自分のことをわかってもらいたいと思うのに似ています)。これは否定できる感情ではありません。少なくとも,論文・発表には聴き手に「わかってもらう」という性質があるはずだからです。しかし,「わかってもらえないのではないか。」という恐怖が,読みの格闘からすり抜ける原因となっています。
2つ目は,「自分の読みに起きていることがうまく説明できないから」です。正直に言いますと,『高瀬舟』の喜助が弟を殺した後,彼らの中で何が起きたのか,私には分かりません。「はれやかな顔」が弟と兄で重なるように書かれているのは分かるのですが,そこに至るまでの飛躍が私には分からないのです。また,このことを考えることは,極めて私個人の問題に刺さってくるのが分かります(おにたで言えば「ぼうし」をとるようなことです)。これを考え,人に伝えることが絶望的にしんどく,困難なのです。なぜだかわかりません。書けばよいのに書けないのです。またその能力を備えていないのではないかと思い込んでしまっています。
これが私の読みの「公式化」を齎していると考えます。「具体的な読みの場で」と田中先生はおっしゃっていますが,「できてますよ。」と簡単に言えないのが自分の現状なのだと思います。恐怖への対峙の在り方も根源的に「公式化」できないからです。しかし,逆説的ではありますが,この難問を突破するには「発表・書く」しかないとも思っています。もし,この場を通じて読みを掘り起こしていけるのなら,これほど幸せなことはありません。
ここに書いていることも私の今の限界ラインです。超えるにはある種の勇気を必要としています。長文失礼しました。
それに対するわたくしの回答と併せて再掲します。
外部領域とは何か (黒瀬貴広)
2022-07-27 13:15:02
作品の仕掛けを読む際の「外部」とは如何なるものなのかについて質問させてください。
『高瀬舟』の場合,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えた,対象人物の「喜助」そのものが〈語り手〉によって問題化されていると考えます。例えば,庄兵衛のまなざしから見れば,喜助の弟殺しは安楽死の問題に回収されています。しかし,語り手は視点人物の「庄兵衛」のまなざしから喜助を語り出す一方で(視点人物「庄兵衛」の捉えた対象人物「喜助」),それを超えた喜助そのもの(了解不能の《他者》)を,読み手には見えるかたちで問題にしています。「喜助」の直接話法には,「思わぬところを切ってしまった」とあり,弟を安楽死させようとする意図が見られません。そして,死んだ弟の晴れやかな顔は,作品冒頭の「喜助」の姿と重なるように語り手は語り出しています。このように,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えたところで,「喜助」そのものが問われるように語り手は語り出しています。
ここまでの読みが成立していると考えた時,外部とは如何なることなのかが再び私の中で疑問となります。例えば,「語り手が語り出そうとしている「喜助」そのものの領域を外部=〈第三項〉と呼んでよいのだろうか。」あるいは,「二つの世界を相対化して語る語り手の領域を外部=〈第三項〉と呼ぶのだろうか。」
このような疑問が湧いてきます。
恐らく基本的な問題なのでしょうが,私の中で十分に落とし込めていません。外部という言葉を度々先生がお使いになるからこそ,そのことの意味を知りたいと思います。お答えいただけると幸いです。
黒瀨君へ、 (田中実)
2022-07-27 23:35:07
黒瀨君へ、
ご質問にお応えします。貴君が「ここまで読みが成立していると考えた時」と指摘し、そう捉えるのは貴君にとっては尤もです。しかし、それはあくまで貴君にとってのこと、その「ここまで」は田中から見れば早計です。何がそこに欠落しているか、それは貴君自身が〈読みの仕掛け、読みの仕組み〉を読み込む作業に向かうこと、そこで、私は貴君の素晴らしい『舞姫』論の事を思い起こします。
手前みそで顰蹙を買うことを敢えて言いますが、貴君の『舞姫』論は拙稿『舞姫』論に対する貴君の読み取りの多年の蓄積による産物であり、見事です。その通り、『舞姫』を読むためには思考の枠組みの解体が驚くほど要求れるのです。
この鷗外の処女作がいかに先駆的であるか、たやすくできることではありません。貴君はこれをやってのけています。
修士論文を手直しされた貴君の『舞姫』論を読むものは恐らく、そこに貴君が重ねた「思考の制度批判」と出会わざるを得ない、格闘せざるを得ません。これが出来ない読み手は貴君の作品論から排除されます。
では『高瀬舟』では、どうでしょうか。
確かに数多の『高瀬舟』論はこれを安楽死、ユータナジーという殺人の枠組みで捉えますが、貴君はそうした〈読み〉ではありません。ならば『高瀬舟』をどう捉えるか、〈第三項〉による読み方が先にあるのではありません。〈読みの仕組み・仕掛け〉を読み取っていくこと、〈第三項〉とは何かは後から考えるのです。〈第三項〉論は便宜的な方法論ではなく、世界観認識の原形とお考え下さい。
読みは読みの実践・具体とともにしかありません。「架ける会」でも〈第三項〉を巡っての原理論の論争がなされているようですが、それは具体的な作品の読みと共に行ってください。抽象的のままでは実りはまずありません。
如何すか。どうぞ、もう一度、コメント下さい。
コメントについて (黒瀬貴広)
2022-07-28 07:38:14
お返事,ありがとうございます。
先生の言葉を受けて,私に分かったことがあります。
それは,〈第三項〉の問題が私の中で知らず知らずに「公式化」されてしまっていたということです。
『高瀬舟』で「ここまで」と述べたところが,私の読みにブレーキをかけてしまっています。それは,議論の場でも同じだと感じました。「その領域を〈第三項〉と呼んではいけない。」だとか「そのように捉えたら自己倒壊は起きない。」というような言葉は,結果的に「読み方」を前提にしてしまいます。つまり,「読み方」から逆算的に作品を捉えようとしてしまっていると考えられるのです(その「読み方」も自己の枠組みにすぎません)。なぜそうなってしまうのか。
これには2つの理由があると思います。1つ目は,「人にわかってもらいたいから。」です。私が論文・発表をする際,「人に自分の考えていることを分かってもらいたい。」という感情が湧いてきます(『おにたのぼうし』の「おにた」が「女の子」に自分のことをわかってもらいたいと思うのに似ています)。これは否定できる感情ではありません。少なくとも,論文・発表には聴き手に「わかってもらう」という性質があるはずだからです。しかし,「わかってもらえないのではないか。」という恐怖が,読みの格闘からすり抜ける原因となっています。
2つ目は,「自分の読みに起きていることがうまく説明できないから」です。正直に言いますと,『高瀬舟』の喜助が弟を殺した後,彼らの中で何が起きたのか,私には分かりません。「はれやかな顔」が弟と兄で重なるように書かれているのは分かるのですが,そこに至るまでの飛躍が私には分からないのです。また,このことを考えることは,極めて私個人の問題に刺さってくるのが分かります(おにたで言えば「ぼうし」をとるようなことです)。これを考え,人に伝えることが絶望的にしんどく,困難なのです。なぜだかわかりません。書けばよいのに書けないのです。またその能力を備えていないのではないかと思い込んでしまっています。
これが私の読みの「公式化」を齎していると考えます。「具体的な読みの場で」と田中先生はおっしゃっていますが,「できてますよ。」と簡単に言えないのが自分の現状なのだと思います。恐怖への対峙の在り方も根源的に「公式化」できないからです。しかし,逆説的ではありますが,この難問を突破するには「発表・書く」しかないとも思っています。もし,この場を通じて読みを掘り起こしていけるのなら,これほど幸せなことはありません。
ここに書いていることも私の今の限界ラインです。超えるにはある種の勇気を必要としています。長文失礼しました。