この記事は9月14日に公開したものを若干書き改めました。
8月30日の記事では、森鷗外の『高瀬舟』を取り上げ、その後、
あまんきみこの童話『白いぼうし』や『あるひあるとき』を取り上げました。
このように対象の作品は違っても、論じようとする私の姿勢、
語られた出来事を語る主体との相関で読む、
「読むことを読む」態度に違いはありません。
あまんきみこの童話を読む際も、
語られた出来事、お話の筋(ストーリー・プロット)を読むだけでなく、
その語られた出来事を語る主体である〈語り手〉との相関関係を読むことを論じました。
見えにくいナレーターに目を向けることをお勧めしています。
一人称の「わたし」の背後には、
その「わたし」を「わたし」と語る〈機能としての語り手〉を読み、
全体を構造化していくことです。
この〈語り―語られる〉相関関係に〈作品の仕掛け〉が隠れていますから。
それがその作品の〈仕組み〉を読むことになります。
もう一度、申します。
読者は作品の筋(プストーリー・プロット)を読みますが、
読者にその筋(ストーリー・プロット)をそう読ませた読み手の中の力学、
メタ筋、〈メタプロット〉の力学を読むことが肝心です。
筋を筋として対象化し、その筋を語る主体である〈語り手〉との関係を読み、捉え直すのです。
その際、読み手自身の主体、その世界観が対象化されていき、自己発見が起こると同時に、
思いがけない〈作品の仕組み・仕掛け〉の方が現れてきます。
それは読み手を思いがないところに拉致し、
新たな世界に連れて行く可能性があります。
読む前の読み手の主体はこのとき、一旦何らかの〈瓦解・倒壊〉が起こっています。
語られた出来事、その筋(ストーリー・プロット)と
そう語っている主体との相関関係を読むことが
〈近代小説・童話〉を読む基本です。
それらは我々読者である読み手の内部に起っている力学(メカニズム)、
出来事の現象なのですが、これが我々読者の主体を新たに〈再構築〉させていく、
そうした可能性が近代小説を読む喜びだとわたくしは考えています。
昔から言っていることですが、「語り手」という用語は流布しましたが、
その用語、この関係概念が実体概念として理解されている面があります。
〈語り手〉は何らかの出来事を語って、はじめて、〈語り手〉・ナレーターであり、
しばしば視点人物を〈語り手〉と捉えている論文を目にします。
視点人物も〈語り手〉に語られて、視点人物として作中に現れるのです。
視点人物とは、〈語り手〉によって語られた存在でしかありません。
すなわち、その視点人物のまなざしによって現れた出来事を〈語り手〉が語っているのです。
その際、〈語り手〉は視点人物の背後、外部、メタレベルにいます。
小説を読むにはそうした作品のの仕組みである構造性を捉えることが必要なのです。
『高瀬舟』では作中のお話に登場する京都町奉行所の同心羽田庄兵衛は視点人物であり、
お話の〈語り手〉であるナレーターではありません。
ナレーターはこのお話の大要を同心の羽田庄兵衛のまなざしによって語っていきます。
お話の核心は、弟を殺したにも関わらず、
晴れやかな表情をした不思議な兄喜助の心の奥に起こった出来事、
その内奥に隠されています。
喜助は庄兵衛に向かって、直接話法で、これを語るのですが、
これが実は大変に分かりにくいのです。
読者だけが分かりにくいのではありません。
作中の聴き手たち、喜助の話を聴く聴き手の同心の役人羽田庄兵衛にとっても、
奉行にとってもそうでした。
弟殺しのこの事件に京都町奉行所は実に、半年もかかって、判決を出しました。
この弟殺しの下手人の喜助と高瀬舟護送の同心の羽田庄兵衛、
両者の相関関係、互いが互いにとって、〈わたしのなかの他者〉同士の関係です。
同心の庄兵衛も奉行の判決にどこか「附に落ちぬもの」を感じ取り、
「お奉行様に聞いて見たくてならなかつた。」のです。
高瀬舟は黒い水面を滑っていきます。
このあたりに関しては後日、お話します。
ところで、『高瀬舟』は中学校の学校教材でもあります。
光村図書から出版されている指導書には、主題として次のようにあります。
「高瀬舟」が江戸時代の随筆集「翁草」から類を得て書かれた小説であることは、
「附高瀬舟縁起」に述べられている。この中で鷗外は、「財産というものの概念」と
「ユウタナジイ」(安楽死)とを「二つの大きい問題」と書いている。
つまり「高瀬舟」は知足(自らの分をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。)
と安楽死を主題とした作品といえる。
しかし、中学生の読書指導としては、あまり微視的な読解作業に陥ることを
避けて、書き手(語り手)や登場人物の考え方や生き方を読み取らせることに重点を置きたい。
一読者として、今の自分の生き方や考え方と比べながら読み進めることで、
小説を読む楽しさや価値を実感し、そこから、他の小説にも心が開かれていくことだろう。
これを読んで驚愕しました。
何に驚愕したかと言えば、指導書では「附高瀬舟縁起」の原典、
『翁草』のなかの「流人の話」で鷗外が読んだことをそのまま、
小説『高瀬舟』の「主題」、テーマとしていることです。
これでは「流人の話」で鷗外が面白いと思ったことがそのまま書き写されたものが
『高瀬舟』ということになります。
「附高瀬舟縁起」とは鷗外が小説『高瀬舟』を執筆する際、
その「縁起」、きっかけ、いきさつを語ったものでしかありません。
現在、この「流人の話」は岩波書店の『鷗外歴史文学集第三巻』に参考資料として、
須田喜代次さんの「解題」とともにありますから、
簡単に読むことができ、とても助かります。
素材の面白さがどう書かれるかが、
文学の芸術表現『高瀬舟』を読むことであるはずです。
「流人の話」で「財産と云ふものの観念」と「ユウタナジイ」、
これを「面白い」、「ひどく面白い」と読んだ鷗外が、
それらを『高瀬舟』にどう書いているのか、
小説の方が読まなければなりません。
これに関心を持って読んでいくと、そこには実は、意外なことが起こっています。
もちろん、意外なことと読むのは、わたくし個人の感想に過ぎません。
「読むこと」は読み手の主体に応じて、さまざまに現れてくることですが、
少なくとも、それは小説『高瀬舟』を読んでのこと、
先の指導書が「あまり微細な読解作業に陥ることを避け」ようとする姿勢は理解できますが、
まず、まず、作品の〈本文〉を読むことが基本でしょう。
小説の『高瀬舟』のナレーターの〈語り手〉は江戸時代寛政の頃、
松平定信の時代の弟殺しの話を語って、どこに読者を連れて行くのか、
これが小説の領域、「縁起」は「縁起」。
指導書に言う「小説を読む楽しさや価値を実感」するには、
小説が読み手をどこに連れて行くか、どこに拉致するのかを読むこと、
これが望ましいのではないでしょうか。
『高瀬舟』には「読むこと」の問題が満載です。
8月30日の記事では、森鷗外の『高瀬舟』を取り上げ、その後、
あまんきみこの童話『白いぼうし』や『あるひあるとき』を取り上げました。
このように対象の作品は違っても、論じようとする私の姿勢、
語られた出来事を語る主体との相関で読む、
「読むことを読む」態度に違いはありません。
あまんきみこの童話を読む際も、
語られた出来事、お話の筋(ストーリー・プロット)を読むだけでなく、
その語られた出来事を語る主体である〈語り手〉との相関関係を読むことを論じました。
見えにくいナレーターに目を向けることをお勧めしています。
一人称の「わたし」の背後には、
その「わたし」を「わたし」と語る〈機能としての語り手〉を読み、
全体を構造化していくことです。
この〈語り―語られる〉相関関係に〈作品の仕掛け〉が隠れていますから。
それがその作品の〈仕組み〉を読むことになります。
もう一度、申します。
読者は作品の筋(プストーリー・プロット)を読みますが、
読者にその筋(ストーリー・プロット)をそう読ませた読み手の中の力学、
メタ筋、〈メタプロット〉の力学を読むことが肝心です。
筋を筋として対象化し、その筋を語る主体である〈語り手〉との関係を読み、捉え直すのです。
その際、読み手自身の主体、その世界観が対象化されていき、自己発見が起こると同時に、
思いがけない〈作品の仕組み・仕掛け〉の方が現れてきます。
それは読み手を思いがないところに拉致し、
新たな世界に連れて行く可能性があります。
読む前の読み手の主体はこのとき、一旦何らかの〈瓦解・倒壊〉が起こっています。
語られた出来事、その筋(ストーリー・プロット)と
そう語っている主体との相関関係を読むことが
〈近代小説・童話〉を読む基本です。
それらは我々読者である読み手の内部に起っている力学(メカニズム)、
出来事の現象なのですが、これが我々読者の主体を新たに〈再構築〉させていく、
そうした可能性が近代小説を読む喜びだとわたくしは考えています。
昔から言っていることですが、「語り手」という用語は流布しましたが、
その用語、この関係概念が実体概念として理解されている面があります。
〈語り手〉は何らかの出来事を語って、はじめて、〈語り手〉・ナレーターであり、
しばしば視点人物を〈語り手〉と捉えている論文を目にします。
視点人物も〈語り手〉に語られて、視点人物として作中に現れるのです。
視点人物とは、〈語り手〉によって語られた存在でしかありません。
すなわち、その視点人物のまなざしによって現れた出来事を〈語り手〉が語っているのです。
その際、〈語り手〉は視点人物の背後、外部、メタレベルにいます。
小説を読むにはそうした作品のの仕組みである構造性を捉えることが必要なのです。
『高瀬舟』では作中のお話に登場する京都町奉行所の同心羽田庄兵衛は視点人物であり、
お話の〈語り手〉であるナレーターではありません。
ナレーターはこのお話の大要を同心の羽田庄兵衛のまなざしによって語っていきます。
お話の核心は、弟を殺したにも関わらず、
晴れやかな表情をした不思議な兄喜助の心の奥に起こった出来事、
その内奥に隠されています。
喜助は庄兵衛に向かって、直接話法で、これを語るのですが、
これが実は大変に分かりにくいのです。
読者だけが分かりにくいのではありません。
作中の聴き手たち、喜助の話を聴く聴き手の同心の役人羽田庄兵衛にとっても、
奉行にとってもそうでした。
弟殺しのこの事件に京都町奉行所は実に、半年もかかって、判決を出しました。
この弟殺しの下手人の喜助と高瀬舟護送の同心の羽田庄兵衛、
両者の相関関係、互いが互いにとって、〈わたしのなかの他者〉同士の関係です。
同心の庄兵衛も奉行の判決にどこか「附に落ちぬもの」を感じ取り、
「お奉行様に聞いて見たくてならなかつた。」のです。
高瀬舟は黒い水面を滑っていきます。
このあたりに関しては後日、お話します。
ところで、『高瀬舟』は中学校の学校教材でもあります。
光村図書から出版されている指導書には、主題として次のようにあります。
「高瀬舟」が江戸時代の随筆集「翁草」から類を得て書かれた小説であることは、
「附高瀬舟縁起」に述べられている。この中で鷗外は、「財産というものの概念」と
「ユウタナジイ」(安楽死)とを「二つの大きい問題」と書いている。
つまり「高瀬舟」は知足(自らの分をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。)
と安楽死を主題とした作品といえる。
しかし、中学生の読書指導としては、あまり微視的な読解作業に陥ることを
避けて、書き手(語り手)や登場人物の考え方や生き方を読み取らせることに重点を置きたい。
一読者として、今の自分の生き方や考え方と比べながら読み進めることで、
小説を読む楽しさや価値を実感し、そこから、他の小説にも心が開かれていくことだろう。
これを読んで驚愕しました。
何に驚愕したかと言えば、指導書では「附高瀬舟縁起」の原典、
『翁草』のなかの「流人の話」で鷗外が読んだことをそのまま、
小説『高瀬舟』の「主題」、テーマとしていることです。
これでは「流人の話」で鷗外が面白いと思ったことがそのまま書き写されたものが
『高瀬舟』ということになります。
「附高瀬舟縁起」とは鷗外が小説『高瀬舟』を執筆する際、
その「縁起」、きっかけ、いきさつを語ったものでしかありません。
現在、この「流人の話」は岩波書店の『鷗外歴史文学集第三巻』に参考資料として、
須田喜代次さんの「解題」とともにありますから、
簡単に読むことができ、とても助かります。
素材の面白さがどう書かれるかが、
文学の芸術表現『高瀬舟』を読むことであるはずです。
「流人の話」で「財産と云ふものの観念」と「ユウタナジイ」、
これを「面白い」、「ひどく面白い」と読んだ鷗外が、
それらを『高瀬舟』にどう書いているのか、
小説の方が読まなければなりません。
これに関心を持って読んでいくと、そこには実は、意外なことが起こっています。
もちろん、意外なことと読むのは、わたくし個人の感想に過ぎません。
「読むこと」は読み手の主体に応じて、さまざまに現れてくることですが、
少なくとも、それは小説『高瀬舟』を読んでのこと、
先の指導書が「あまり微細な読解作業に陥ることを避け」ようとする姿勢は理解できますが、
まず、まず、作品の〈本文〉を読むことが基本でしょう。
小説の『高瀬舟』のナレーターの〈語り手〉は江戸時代寛政の頃、
松平定信の時代の弟殺しの話を語って、どこに読者を連れて行くのか、
これが小説の領域、「縁起」は「縁起」。
指導書に言う「小説を読む楽しさや価値を実感」するには、
小説が読み手をどこに連れて行くか、どこに拉致するのかを読むこと、
これが望ましいのではないでしょうか。
『高瀬舟』には「読むこと」の問題が満載です。
このことは、先生の『高瀬舟』論にも通底すると思います。喜助が内面では死んだ弟と共に生き、生死を超える「生きる者の輝き」で、官僚機構の枠組みを超越したことは、人生の価値がどこにあるかを考えさせられると思います。
この指導書のように、作品の文学表現を読まずに、『縁起』で作品の主題を決めてしまうのは、作品の価値を全く引き出せないと思います。
『高瀬舟』の先行研究からも分かりますが、文学研究者たちが「メタプロット」を読む意識がなく、先生が言われる〈近代小説〉と「物語文学」の語りの構造を同一視していると思います。
まず、私の意図を先に言いますと、あまんきみこの童話を取り上げているのは、これが実は、〈近代小説〉の神髄の大問題を揺さぶることだと考えているからです。童話も小説も表層の見かけによらないものだと思いますよ。
次に体温とか温もりの問題、これはいわば、人間の生活上の出来事の根源にあり、生命を生命とさせる根底の力学である、と考えます。人類の生命が生命としてあることの根底にはこの体温・ぬくもりの問題がある、わたくしはそんなイメージを持っています。
あまんさんのナデナデして創り出されるこけしと人間の関係もまた、人間の生の根底に置いているなと、『あるひあるとき』を読んで感じています。
一方、鷗外の『高瀬舟』の視点人物の羽田庄兵衛のまなざしの外部に、喜助の生、そのまなざしがあります。喜助の内奥は弟と二人で一人の生を自身の内奥に抱えて幼い時から生きてきたのです。この弟を自らが誤って殺します。にもかかわらず、何故喜助は毫光が指すような輝きを放つと見えるのか、これが『高瀬舟』を読む難問にして核心です。これを拙稿「『高瀬舟』私考」(1979年4月『日本文学』)
に書きました。
このことは後日、改めて論じます。
現在光村図書の中学国語教科書の指導書では、鷗外が原典の『翁草』のなかの「流人の話」で捉えて書いた内容を『高瀬舟』の主題としています。
周さんにはこの誤りがよくわかっていらっしゃると思われますが、中学の先生方、あるいは光村の指導書の関係の方々は、どうお考えでしょうか。
こうした問題が現在も起こっているのは、小説作品を読むコンセンサスが、現在の我々の研究に如何に欠落しているか、教科書のレベルで分かることです。
「読む」ためには、「読むこと読む」、これを通して作品を読むことですよね。