今日の「天声人語」の記事は映画を10分程度の早送りで観る人たちの話、
『映画を早送りで観る人たち』の本の事が出ています。
映画を早送りで観る人たちの話を聴いても、意外な感じはしません。
情報社会ですから。
情報は集めるが、映画に浸ったりはしない。
それはそれで全否定はしませんが、
やはり名作映画には一旦はじっくり心ゆくまで浸ってみたいもの
とわたくしは想っています。
しかし、これが近代小説の名作となると、その浸るだけでは済みません。
それがなぜ名作なのかその秘密を解き明かしたいと文学研究者なら、
それが仕事の核心になるからです。
何故か気になる、心に残る、その究極の秘密を解きあかそうとするでしょう。
つまり、その作品とそう感じる自身の根源,原理に向かわざるを得ないのです。
ところが、現在、その文学研究の専門家が、いや、文学研究者に留まらない、
その文学作品の名作を学校教材として扱う国語教育の専門家もまた、
近代文学の名作を早送りで読むことを提唱しているように見えます。
今朝の「天声人語」の記事の早送り問題は政府の対応に留まらない、
文学研究・文学教育研究の読みの問題に今日現れています。
そんな中、中国から李勇華君から広島大学大学院に提出された博士論文が送られてきました。
今、李君をこれを書き改めて、出版の準備をしていますが、
そのタイトルは「文学研究と文学教育の交差研究―世界観認識の癒着から分離へ―」です。
まさしく原理に向かっています。
また去年、中国文学研究をリードする北京大学の呉暁東氏が
「〈機能としての語り手〉から「第三項」論まで―魯迅『故郷』に対する田中実の解読―」を
『魯迅研究月刊』9月号に発表、読みの原理に立ち向かい、
その後、呉氏からはズームで質問を受け、通訳を介してやり取りしました。
これは学界情況が情報社会に組み込まれていくのと対極の動きに見えます。
いわゆる名作に限りません。
目立たない作品にも実はこれをじっくり読んでいる自分を読む、
すると、そこには早送りの傾向にある文学と教育の研究状況とは対極の読みが
生まれてくるかと思われます。
長くなりました。続きは、次回の記事にしましょう。
『映画を早送りで観る人たち』の本の事が出ています。
映画を早送りで観る人たちの話を聴いても、意外な感じはしません。
情報社会ですから。
情報は集めるが、映画に浸ったりはしない。
それはそれで全否定はしませんが、
やはり名作映画には一旦はじっくり心ゆくまで浸ってみたいもの
とわたくしは想っています。
しかし、これが近代小説の名作となると、その浸るだけでは済みません。
それがなぜ名作なのかその秘密を解き明かしたいと文学研究者なら、
それが仕事の核心になるからです。
何故か気になる、心に残る、その究極の秘密を解きあかそうとするでしょう。
つまり、その作品とそう感じる自身の根源,原理に向かわざるを得ないのです。
ところが、現在、その文学研究の専門家が、いや、文学研究者に留まらない、
その文学作品の名作を学校教材として扱う国語教育の専門家もまた、
近代文学の名作を早送りで読むことを提唱しているように見えます。
今朝の「天声人語」の記事の早送り問題は政府の対応に留まらない、
文学研究・文学教育研究の読みの問題に今日現れています。
そんな中、中国から李勇華君から広島大学大学院に提出された博士論文が送られてきました。
今、李君をこれを書き改めて、出版の準備をしていますが、
そのタイトルは「文学研究と文学教育の交差研究―世界観認識の癒着から分離へ―」です。
まさしく原理に向かっています。
また去年、中国文学研究をリードする北京大学の呉暁東氏が
「〈機能としての語り手〉から「第三項」論まで―魯迅『故郷』に対する田中実の解読―」を
『魯迅研究月刊』9月号に発表、読みの原理に立ち向かい、
その後、呉氏からはズームで質問を受け、通訳を介してやり取りしました。
これは学界情況が情報社会に組み込まれていくのと対極の動きに見えます。
いわゆる名作に限りません。
目立たない作品にも実はこれをじっくり読んでいる自分を読む、
すると、そこには早送りの傾向にある文学と教育の研究状況とは対極の読みが
生まれてくるかと思われます。
長くなりました。続きは、次回の記事にしましょう。