〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

丸山さんからの質問

2018-10-14 22:00:00 | 日記
丸山さんからコメントを頂きましたが、長いので、これをブログに回させていただきます。

 以下はまず丸山さんのコメントです。

今回の先生のご講演を伺って(そして今現在1年生の授業で『城の崎にて』を実際にやっていて)『范の犯罪』抜きでは、『城の崎にて』は読み得ない、と強く感じています。
「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない致命傷になりかねないが、そんなことはあるまいと医者に言われた。二、三年で出なければ後は心配いらない、とにかく要心は肝心だからと言われて、それで来た」とあります。普通なら、不安や恐怖で、落ち着かない気持ちになるところです。あるいは、不安や恐怖を忘れようとして、仕事に打ち込んだり遊興に走ったりするところです。ところが、「自分」は「一人で但馬の城崎温泉」にやって来て、「しかし気分は近年になく静まって、落ち着いたいい気持ちがしていた」と言い、「しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた」と述べています。この通常では考えにくい「自分」の心境を説明するのに、私小説である点に寄りかかって作品外から、「近年」の父親との対立・確執などの伝記的事実を持ってきて説明しようとしたり、この大変な事故によって初めて死を意識し、そういう気持ちになったのだという、実は説明にならない説明を今まではしてきたような気がします。しかし、考えてみれば、自分の死を意識するのに、青山の土の下に寝ている自分の死骸を想い浮かべたり、蜂の死骸の静かさに着目したりというのは、やはり「妙」です。自分の死骸など思い浮かべたくない、蜂の死骸など見ていたくないというのが自然な反応のように考えられるからです。
ここはやはり先生がおっしゃるように、事故前に『范の犯罪』を書いていた、その『范の犯罪』の内容をおさえないと「自分」の気持ち、心境は説明できないと思います。『范の犯罪』を書いた時点で、生と死は等価(生と死は〈類〉の内に収まる)という認識を「自分」は得ており、事故前に、すでに殺された范の妻の静かさに「自分」は立っている、と読むと、「自分」の城崎温泉における前述の気持ち、心境も初めて理解されてきます。
「それは范の気持ちを主にして書いたが、しかし今は范の気持ちを主にし、しまいに殺されて墓の下にいる、その静かさを自分は書きたいと思った」とあります。通常、殺された人間は怨みや悔恨などで死後静かにはいられないはずですが、「自分」は前述のような認識を持って、作中の裁判官と同じ目で、范の妻を捉えているからこそ、「静かさ」ということが言えるのだと思います。それを事故後の「今」、あらためて書きたいと思った、そう読めるわけですね。
山手線の事故→心境の変化、と読むのは易しいし、一見分かりやすそうですが、それは結局、出来事を読むだけのものであり、語り手「自分」を、その外側の〈機能としての語り手〉から捉えると、「自分」の識閾下にあって、自分の気持ちを動かしているものが見えてきます。それは『范の犯罪』を書いた「自分」がすでに持っている認識です。それは当初「自分」には意識化されていませんでしたが、蜂の死骸を見てその静かさに親しみを感じた、その時点で「自分」の意識に浮かび上がってきた、そこで『范の犯罪』について触れた、というように読んで宜しいのでしょうか。

これについては、次の記事でお応えします。
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