明日は定例の「朴木の会」の講座です。
高尾から甲府に行きます。
明日のためにここでは説明的文章ではなく、文学的文章を読む急所の第一歩をお話します。
先にご報告したように、拙稿「近代小説の《神髄》―「表層批評」から〈深層批評〉へ―」が
周非さんの翻訳で中国の雑誌『魯迅研究月刊』十月号に掲載されると聞き、
新たな展開の予感を感じています。
日本でも文化研究である「表層批評」の読みのアナーキーを認め、
その文化批評から、文学の読み、文学の批評、リアリズムを突き抜けた〈深層批評〉に
向かい、保守に閉じられた文学研究の学問界から解放すべく、
皆さんとステップを踏んでいきたいと願っています。
現在の文学研究、国語教育研究の諸団体が文学作品を読むための基本、
〈第三項〉論を前提にした「オリジナルセンテンス」を読む基本的立場を明瞭に認め、
読みの実践に向かえるようにと、以下論じていきます。
この第一回きりではもちろん辿り着きません。そのおつもりで。
既存の文学研究・文学教育研究の読み方に対し、わたくしは多年の間、
原理の転換を要請して空しい思いを続けてきました。
無論、自分自身の非力なる故です。
時代は明らかに〈第三項〉論を求めていますから・・・。
究極と言うか、基本と言うか、文学作品を「読むこと」は虚無・アナーキーであり、
そのため、文学作品の読みの正しさはなく、これは文化研究に包含されざるを得ません。
蓮實重彦氏の用語で言えば、「表層批評」に立つ必要があります。
しかし、この学問としての基本を国語教育の分野では西郷・田近両先生をはじめ、
数多の教育団体は認めず、旧来のリアリズムの読み方、世界観のお立場にあり、
伝統を遵守なさいます。
田近先生は2014年3月、教育教育出版の『文学の教材研究』の中村龍一さんを司会にした
対談で、田中の客体の文章は読者に読まれなければ、対象の文章はインクの跡、
物質の断片に過ぎないという立場に対し、これを「言語的資材」と呼び、
「アナーキー」にはたどりつかないお立ち場、「似非読みのアナーキー」に
お立ちになりました。
文学作品の読みは読み手次第であることを認めながら、
客体の対象の文章は客観的実体だとお考えになるから、
どうしてもアナーキーにはたどり着きません。
そこで、原理をお話します。
目の前の客体の文学作品の文章とは文字のカタチである「視覚映像」と
その意味である「概念」とが任意に結合した文字の連鎖であります。
読み手がこの「視覚映像」を知覚して、その意味である「概念」を反射的に無意識に捉え、
その文字の連鎖を捉えていくことによって、
一定の文脈(コンテクスト)を生成することになります。
ここに文学作品の文章が成立し、これを読むことで、「読む行為」が生じるのであります。
ここまでいかがでしょうか。
ところが、近代小説・童話の傑作は目に見える現実の出来事をありのままに写し取るという
近代的リアリズムに収まらない問題を語っていきます。
まず、これを読み取ることが難しい。鷗外なら「天来の奇想」、
漱石なら「二辺平行する三角形」、
三島由紀夫なら「蝶番」の位置が「現実と超現実の併合のその外」、
村上春樹なら「地下二階」などの概念を受容することが要求されます。
第一回、まずはここまでにしましょう。近代小説の神髄を読むには、
リアリズムの限界領域、目に見える現実の外部に目を向ける必要があります。
大森荘蔵の「真実の百面相」の話ですね。
これがまず第一歩です。
高尾から甲府に行きます。
明日のためにここでは説明的文章ではなく、文学的文章を読む急所の第一歩をお話します。
先にご報告したように、拙稿「近代小説の《神髄》―「表層批評」から〈深層批評〉へ―」が
周非さんの翻訳で中国の雑誌『魯迅研究月刊』十月号に掲載されると聞き、
新たな展開の予感を感じています。
日本でも文化研究である「表層批評」の読みのアナーキーを認め、
その文化批評から、文学の読み、文学の批評、リアリズムを突き抜けた〈深層批評〉に
向かい、保守に閉じられた文学研究の学問界から解放すべく、
皆さんとステップを踏んでいきたいと願っています。
現在の文学研究、国語教育研究の諸団体が文学作品を読むための基本、
〈第三項〉論を前提にした「オリジナルセンテンス」を読む基本的立場を明瞭に認め、
読みの実践に向かえるようにと、以下論じていきます。
この第一回きりではもちろん辿り着きません。そのおつもりで。
既存の文学研究・文学教育研究の読み方に対し、わたくしは多年の間、
原理の転換を要請して空しい思いを続けてきました。
無論、自分自身の非力なる故です。
時代は明らかに〈第三項〉論を求めていますから・・・。
究極と言うか、基本と言うか、文学作品を「読むこと」は虚無・アナーキーであり、
そのため、文学作品の読みの正しさはなく、これは文化研究に包含されざるを得ません。
蓮實重彦氏の用語で言えば、「表層批評」に立つ必要があります。
しかし、この学問としての基本を国語教育の分野では西郷・田近両先生をはじめ、
数多の教育団体は認めず、旧来のリアリズムの読み方、世界観のお立場にあり、
伝統を遵守なさいます。
田近先生は2014年3月、教育教育出版の『文学の教材研究』の中村龍一さんを司会にした
対談で、田中の客体の文章は読者に読まれなければ、対象の文章はインクの跡、
物質の断片に過ぎないという立場に対し、これを「言語的資材」と呼び、
「アナーキー」にはたどりつかないお立ち場、「似非読みのアナーキー」に
お立ちになりました。
文学作品の読みは読み手次第であることを認めながら、
客体の対象の文章は客観的実体だとお考えになるから、
どうしてもアナーキーにはたどり着きません。
そこで、原理をお話します。
目の前の客体の文学作品の文章とは文字のカタチである「視覚映像」と
その意味である「概念」とが任意に結合した文字の連鎖であります。
読み手がこの「視覚映像」を知覚して、その意味である「概念」を反射的に無意識に捉え、
その文字の連鎖を捉えていくことによって、
一定の文脈(コンテクスト)を生成することになります。
ここに文学作品の文章が成立し、これを読むことで、「読む行為」が生じるのであります。
ここまでいかがでしょうか。
ところが、近代小説・童話の傑作は目に見える現実の出来事をありのままに写し取るという
近代的リアリズムに収まらない問題を語っていきます。
まず、これを読み取ることが難しい。鷗外なら「天来の奇想」、
漱石なら「二辺平行する三角形」、
三島由紀夫なら「蝶番」の位置が「現実と超現実の併合のその外」、
村上春樹なら「地下二階」などの概念を受容することが要求されます。
第一回、まずはここまでにしましょう。近代小説の神髄を読むには、
リアリズムの限界領域、目に見える現実の外部に目を向ける必要があります。
大森荘蔵の「真実の百面相」の話ですね。
これがまず第一歩です。