〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

『木野』の、あるいは村上文学の分かりにくいところ

2023-04-27 13:47:06 | 日記
『木野』という作品の、あるいは村上文学の分かりにくいところに立ち向かい、
その行方を探りましょう。

まず〈語り―語られる〉相関関係を読む、これがナラトロジーの基本のはずですが、
そこには陥穽があります。
作中の生身の視点人物の語る出来事、その〈語り―語られる〉相関関係を対象化して
語る主体である〈語り手〉を読むことです。
『木野』は三人称ですから、木野の〈語り〉を読むと共に、
作中人物木野の〈語り〉を相対化する作品全体の〈語りの構造〉を読むことが必須です。
〈語り手〉は末尾、木野の内面の劇的な変容を語り、その変容のメカニズムを
解き明かしています。
木野が木野ならざる木野に如何にして変転したか、
その認識の秘鑰(ひやく)が語られていたのです。
木野はそれを生きているに留まります。
認識は〈語り手〉にあります。

村上春樹は常に、と言っていいでしょう、
自身の小説の分かりにくい難題に立ち向かっています。
今度の新作『街とその不確かな壁』は処女作以来の難問を
三年もかけて書き上げました。
これに向き合うためには、まず村上春樹が「仕上げるのがとても難しい小説」
と言っていた『木野』の難問、アポリアと対決し、十全に超克しましょう。
『木野』を通過しないと、そもそも『女のいない男たち』の「本質」に向き合い切れず、
『一人称単数』にも向き合い切れません。

もう一度短編小説『女のいない男たち』のことを説明しておきます。
ここでは個人個人、一人一人のそれぞれの出来事の「事実」ではなく、
その「本質」に向かおうとして、一人称の〈語り手〉の「僕」は
「月の裏側で誰がと待ち合わせをするような」、
現実には不可能な根源的な事態を語ろうとしています。
それが「女のいない男」という「本質」に向き合うことの意味なのです。
「僕」は小説冒頭、深夜の電話で「僕」が深く関わった相手の女性が自殺したと知らされ、
それが「僕」にとって三人目の自殺者だったところから物語は始まりますが、
何故「僕」の相手の女性が三人も自殺者となるのか、
それは「僕」なる人物にとって女なるものが、根源的に不可解なるもの、
永劫の《他者》であることを表しています。

このことは個々の出来事の「事実」の根底に隠れている「本質」を問題にすることなのです。
ここで言う「本質」とは、人それぞれに偶発的に起こる個人的な出来事、
「事実」をそれぞれ突き詰めていくと、その底でリアリスティックなことを超える
不条理や背理に遭遇する、そうした次元のことを言っているのです。
『木野』はこの問題にとって、欠かすことのできない通路です。

木野はそもそも自身の無意識の領域で両極に引き裂かれ、
その心の奥の隙間に狡猾な蛇の心臓が棲みついています。
これを断ち割るべく、カミタは木野を旅に向かわせ、その主体の放つ限界、
境界に立たせ、その主体を獲れたての烏賊(いか)のように透明にし、
「空洞」にする地平に追い込みました。
そうされることで、木野は自分の外から自分の心の扉を叩く音を聞くのです。
木野はこの極限、反木野、「私」が「私」を超える「私」たり得る「私」になり、
自身の中に「温かみ」を持つのです。
こうして、矛盾する自分を統一する自分になります。
「絶対矛盾的自己同一」の領域に達するのです。
こうして木野は真に自身の捉えた外界のみならず、
自身を超えた外界との対峙を可能にするのです。

自己が女と向き合った時、男は根源的な女との出会いが成立し、
男にとって如何に女が、女にとって如何に男が、永劫の「了解不能の《他者》」であるかが
露わになってくるのです。
すなわち、女は確かにいるはずなのに女はいない、逆に女にとって男はいない、
この原理的矛盾に突入し、これと格闘する地平が現れてきます。

科学も量子力学の領域に入ると、「シュレデンガーの猫」の例の如く、
主体で捉えた客体の対象世界は常に主体を裏切ります。
『木野』もこの不条理との闘いなのです。

妻の衝撃の不倫現場を目撃した木野が正式に離婚して妻を忘れるだけでなく、
個人的な「事実」の問題を超えた「本質」に立ち向かい、妻を心の底から赦し、
「温かみ」を手に入れて新たな人生に向かいます。
それによって個人的「事実」の問題に回収して終わらない難問である「本質」に向かう、
それが『女のいない男たち』という小説です。
ここに行かないと村上春樹の小説の醍醐味は味わえません。


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