前回、黒瀨先生の文章を拝読し、感銘を受けたので、その全文をご紹介しました。
何故感銘を受けたのか、それは黒瀨先生には既に、近代小説・童話を読む際、
語られた出来事を読むだけでなく、それを語っている〈語り手〉の〈仕掛け〉を読むことで、
この童話のお話・ストリーを支えている深層構造を読む訓練が出来ているからだなと
思いました。
『注文の多い料理店』を通念で読んでいくと、
「二人の若い紳士」の顔がくしゃくしゃになって元に戻らない、恐ろしい話となり、
これを研究者達は分析・解釈します。
そうではなく、〈作品の仕組み〉、〈仕掛け〉を読み込むことで、
作中に潜んでいる〈作品の意志〉を読み取りましょう。
そうした出来事を仕組んでいる〈語り手〉の〈自己表出〉を読む、
そのためには、語られた出来事のキーワードを読み取る必要があります。
ここでは「だいぶの山奥」という場所が「山奥」と違って、
「紳士」の作り上げた幻想、山猫との対幻想の場であることを読み取ることです。
人が生きるためには常に他の生き物の命を奪うことで生きている、
「山奥」は「専門の鉄砲打ち」、すなわち「専門の猟師」が命のやり取りをして生きる場、
お金はこれを隠蔽する装置です(関心のある人は拙稿の『なめとこ山の熊』論を、
都留文科大学のリポジトリで御覧下さい、さらにはっきりします)。
彼らの住んでいる東京は貨幣経済によって成立している場所、
ここで二人だけが食べることは食べられることという、生命根源の場に行き着き、
その恐ろしさに震え、泣き続けています。
彼らだけが生命の在り方に脅え苦しむ、〈語り手〉はここに二人を追い込みます。
それは生きとし生けるものの定め、誰も逃れられない宿命、これに脅えることで、
彼らは大宇宙に迎えられる、光が投げかけられるのです。
天沢退二郎に代表される現代の文芸批評や文学研究・国語教育での読み方、
これをラディカルに変えていきましょう。
「客観的現実」とい近代の世界観認識を解体することが前提です。
何故感銘を受けたのか、それは黒瀨先生には既に、近代小説・童話を読む際、
語られた出来事を読むだけでなく、それを語っている〈語り手〉の〈仕掛け〉を読むことで、
この童話のお話・ストリーを支えている深層構造を読む訓練が出来ているからだなと
思いました。
『注文の多い料理店』を通念で読んでいくと、
「二人の若い紳士」の顔がくしゃくしゃになって元に戻らない、恐ろしい話となり、
これを研究者達は分析・解釈します。
そうではなく、〈作品の仕組み〉、〈仕掛け〉を読み込むことで、
作中に潜んでいる〈作品の意志〉を読み取りましょう。
そうした出来事を仕組んでいる〈語り手〉の〈自己表出〉を読む、
そのためには、語られた出来事のキーワードを読み取る必要があります。
ここでは「だいぶの山奥」という場所が「山奥」と違って、
「紳士」の作り上げた幻想、山猫との対幻想の場であることを読み取ることです。
人が生きるためには常に他の生き物の命を奪うことで生きている、
「山奥」は「専門の鉄砲打ち」、すなわち「専門の猟師」が命のやり取りをして生きる場、
お金はこれを隠蔽する装置です(関心のある人は拙稿の『なめとこ山の熊』論を、
都留文科大学のリポジトリで御覧下さい、さらにはっきりします)。
彼らの住んでいる東京は貨幣経済によって成立している場所、
ここで二人だけが食べることは食べられることという、生命根源の場に行き着き、
その恐ろしさに震え、泣き続けています。
彼らだけが生命の在り方に脅え苦しむ、〈語り手〉はここに二人を追い込みます。
それは生きとし生けるものの定め、誰も逃れられない宿命、これに脅えることで、
彼らは大宇宙に迎えられる、光が投げかけられるのです。
天沢退二郎に代表される現代の文芸批評や文学研究・国語教育での読み方、
これをラディカルに変えていきましょう。
「客観的現実」とい近代の世界観認識を解体することが前提です。
私も,田中先生の『注文の多い料理店』論を再読いたしました。そのうえで,お聞きしたいのは,田中先生は「心象」(あるいは心象スケッチ)という言葉をどのように捉えているのか,ということです。広告ちらしの「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」という言葉を字義通り受け止めれば,これをリアリズムの文脈で引き受けることも可能です。しかし,『注文の多い料理店』は,まさにこのリアリズムの枠組みを壊すように〈語り手〉が語っていることを読むところに確信があると考えます。この「心象」という言葉は何を指すのか,お聞きしたいです。
なお,この質問は「春と修羅」の「序」をどのように考えるか,ということと密接に結びついていると考えています。「わたくしといふ現象」をめぐる賢治の闘いに関しも,お話をお聞きできれば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
主観的現実の外部に客観的現実の真実があるというリアリズムは一種の観念、イデオロギーの産物です。近代社会はこれを信じて来ました。その典型が「唯物史観」です。
賢治はそうではなくて、賢治の「心象」とはまさしく自身の知覚応じて現れた外界の出来事を主体の表れと認識し、これが大宇宙に通底していることを確信しています。それではそれはリアリズムとどう違うのでしょうか。それをよく教えてくれるのが、大森荘蔵の言う「真実の百面相」の理論です。
人類は人類の持つ媒体(言語)で世界を捉えます。メダカはメダカの媒体で世界を捉え、捉えられる客体の対象は全て人間なら人間の、メダカならメダカの主体によって捉えられた客体の現象であり、それは客体そのもの、外界そのものではありません。客体及び外界そのものは永遠に主体には捉えられない、主体と客体の二項では捉えられない、その外部の〈第三項〉なのです。このからくりが賢治には捉えられています。その意味で、その人の主体にとってはその人に現れた客体のその出来事しか客体は存在しないのです。賢治はこう捉えて、「心象」をスケッチします。すると、それが賢治にとっての宇宙全体ですね。