〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

古守さんのコメントにお応えします

2021-07-21 17:28:50 | 日記
古守さん、石川さんに引き続きコメントありがとう。

私が今回テキストとしたエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』と
短編小説『一人称単数』です。この二つは、それぞれジャンルを異にしながらも、
ベテラン作家村上春樹が「小説を語るとは何か」を語り明かしています。
そのポイントは〈語り手〉の「僕」及び「私」が、
「私」=反「私」という等式を語り、村上文学の秘鑰(ひやく)を
見せてくれていることです。
と言っても、この等式自身は見てすぐ分かる通り、不合理で反常識、
原則として矛盾し、成立するはずはありません。
がしかし、その矛盾に見え、過ちに見えることは物語の表層の字面を読むからであり、
実は恐ろしいほど、人間という生き物の奥の深い生命の在り方の秘密を
垣間見せているのです。

「私」=反「私」とはパラドックス、この一種奇跡的表現によって、
村上文学の内奥の秘密を露わにしています。
と私が言ったからと言って、この逆説の世界観を安直に信じられると困ります。
そうした知的了解は作品の感動、読み手の既存の枠組みを逆に
温存させることになるからです。
村上のこの不合理で反常識な等式の秘密は容易には見えません。
私は今年三月、都留文科大学の研究紀要に発表した『猫を棄てる』に関する拙稿を
お読みいただくにあたって、
身近な方々には、『文學界』に掲載された翻訳家にして批評家の鴻巣友希子氏の批評文と
朝日新聞に掲載された早稲田大学のマイケル・エメリック氏のそれを
同時に読むようにとお願いしました。
それはそれぞれに感情移入して読み比べていくと、
それぞれの世界観の相違が見えてくるはずだからです。
読者は自身のまなざしによって、対象の出来事を読み取ります。
ここではどう読んだらよいのでしょうか。

エッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』は
「猫を棄てる」話で始まって「猫が消える」話で終わります。
冒頭の棄てた猫は家に戻ってきますが、
末尾の消えた猫はこの世の現実ではどうなったか理解できないまま話は終わっています。
鴻巣氏は、村上がこれまで語ってきた虚構の物語はは「地下二階」を語っていたが、
ここでは父親との実際の現実に回収される話と捉え、
虚構と現実が交換されるところにこのエッセイの妙味を捉えるのです。
エメリック氏はこの話にそうした個人的な出来事を斥け、
「宇宙の残虐な偶然の姿」を捉えます。
両者は大きく異なります。
鴻巣氏は無意識の「地下一階」、
エメリック氏は「地下二階」でこれを捉えています。

このブログの7月15日の記事で、村上のエルサレム賞受賞のあいさつ、
「壁と卵」について取り上げました。
そこで「壁」と「個人」が闘っているのではない、
「個人」も「壁」の一部であり、「壁」と「卵」が闘っているのだと述べました。
村上は「個人」の自我・自己に依拠するのではなく、
意識の奥底に隠れている「魂」を求め、そこに依拠しているのです。
そこでは当然、近代的自我史観の真の自己、本当の自我の発見という
近代の通念・理念は通用しません。
「個」の意識の底に降り、その降り切った「地下一階」の、
その底、その底ははもちろん「個人」に見えるはずはありませんが、
村上春樹はそこを降り切ったとして、
その外部の「地下二階」という現実には存在しない虚空=voidを措定して
物語を続けるのです。

すると、エッセイ形式の『猫を棄てる』の「僕」の物語を描く主体の手は
透明になる気がするのです。
物語の末尾、高い松の木に登って降りられない子猫は消えてしまい、
「僕」はそこから「死について考え」、地上を見るまなざしで世界を見ます。
すると、目に見えるリアリズムの領域の外部、
目に見えない〈向こう〉からこちらを見ると、
外界はパラレル・ワールドが広がり、「壁抜け」が起こっているのです。

『一人称単数』であれば、「私」が物語の終わり、バーを出てみると、
そこはもう春ではなく、通る男女は顔ももありません。
語る「私」自体が、実は、宇宙の極みと重なるような「私」ならざる「私」を
生きていた、これが表に現れたのです。
ここにこのお話の〈ことばの仕掛け〉があります。
意識の底の無意識、その無意識の底から登場させられたのが村上春樹の小説です。


『猫を棄てる 父親について語るとき』は、父親の戦争責任を
息子の「僕」がこれをどう引き受けるかが話題の中心です。
父親が無抵抗の中国人の捕虜の兵隊の首を斬った、
あるいはその場に居合わせた罪、
この父の罪を日本の軍隊という組織、「集合的無意識」の所為(せい)にするのではなく、
村上春樹は自身が作家であるため、書くことで自身の責任を取ろうとします。
そこに自身の抱え込んでいる「地下二階」のブラックボックスと向き合い、
作家としての表現を模索するのです。

『騎士団長殺し』は、実は、その表れでもあります。
小説家である村上春樹の「責務」、その戦争責任の取り方とは、
傑作を残すしかないのです。
そうしたことは、直接かかわりのない、宮沢賢治や漱石も鷗外、
志賀直哉に限らない、それぞれの作家の作品を通して果たしていくのです。

ちょっと、長くなりましたね。ごめんなさい。
またコメント下さいね。
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「「私」は「私」であると同時に、反「私」でもある」をめぐって (中村龍一)
2021-07-23 11:40:34
「「私」は「私」であると同時に、反「私」でもある」をめぐって
石川晴美さん
「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか、ということを最近考えています。・・・しかし一方で、近代から取りこぼされた伝統的土着文化の不条理の中にも「私」が存在しているはずであって、その対立・矛盾を超える試みが、《近代小説の神髄》であるということだろうか、 明確な輪郭を持つ確かな私ではなく、「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」であるたくさんの私。
石川さんがご指摘されるように「私」=反「私」は今回の田中さんのご論の確信の問題だと、私も考えます。そこで、私もみなさんの議論に加わらせていただきたいと思います。「中心がいくつもあって、しかも外延を持たない円」はあり得ません。それが何故『私』なのでしょうか? 非所に難問だと私も思います。

古守やす子さん
石川さんのコメントに“「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、
同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか”とありました。
「個が個でありながら、同時に全体」こそ、『私』=「私」+反「私」の世界観で、先生のブログの中の“人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせること”につながるものと思いました。
 古守さんも石川さんのコメントを次期受けて、それは、“人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせることにつながる“とお書きになっています。
 非常に乱暴にお二人のお考えをつなぎ合わせると「『私』とは、中心がいくつもあって、しかも外延を持たない円であり、人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせることにつながる」ということになります。また、石川さんへの田中さんのコメントで「小説が生き物のように、形を変えながらいろんな姿を見せてくれます」をとてもいいと評価されています。このことも気になります。

田中実コメント(古守やす子さんへのコメント)を読んで
「「私」=反「私」とはパラドックスであり、知的了解は作品の感動、読み手の既存の枠組みを逆に温存させることになる」と文学作品を読むとき、「知的理解」ではなぜ駄目なのかを田中さんは述べています。
 私は、この問題は村上春樹「一人称単数」、あまんきみこ文 ささめやゆき絵 絵本『あるひあるとき』で話を進めた方が、私たちの論点がよく見えるのではないかと思います。
 語り手は聴き手を相手取って語っています。逆に言えば語り手は聴き手が現象させた語り手です。ですから、語られた世界は「私」の言葉の制度から逃れられないのではないでしょうか。「私」を徹底的に相対化する、自分の外部から自分を見ることの難問がここにあると私は思っています。私は常日頃これに苛まれています。私の口から吐き出されるものは愚痴、言い訳、時々俺は「ゲゲゲの鬼太郎」の妖怪「ネズミ男」だなと思います。
 「それぞれに感情移入して読み比べていくと、それぞれの世界観の相違が見えてくるはずだからです。読者は自身のまなざしによって、対象の出来事を読み取ります。ここではどう読んだらよいのでしょうか。」、そうなのです。中村はどう読んだらいいのでしょう。

 田中さんは村上春樹のエルサレム賞受賞のあいさつを取り上げています。「村上は「個人」の自我・自己に依拠するのではなく、意識の奥底に隠れている「魂」を求め、そこに依拠しているのです。そこでは当然、近代的自我史観の真の自己、本当の自我の発見という「個」の意識の底に降り、その降り切った「地下一階」の、その底、その底はもちろん「個人」に見えるはずはありませんが、村上春樹はそこを降り切ったとして、その外部の「地下二階」という現実には存在しない虚空=voidを措定して物語を続けるのです。
これが、あり得ない「中心がいくつもあって、しかも外延を持たない円」ではないかと私は考えています。

 田中実さんは「一人称単数」の終末をこう読みます。
「私」が物語の終わり、バーを出てみると、そこはもう春ではなく、通る男女は顔もありません。語る「私」自体が、実は、宇宙の極みと重なるような「私」ならざる「私」を生きていた、これが表に現れたのです。ここにこのお話の〈ことばの仕掛け〉があります。意識の底の無意識、その無意識の底から登場させられたのが村上春樹の小説です。
『あるひあるとき』では、私は以下の叙述を子どもたちにノートに視写させ、私は黒板に模造紙に大きく書き掲示し、一言一句読んでいきたいと思います。「そのあとのことは、なぜか おぼえていません」は、私の心を震えさせます。
「いよいよ あした、しゅっぱつという日。/わたしは、ハッコちゃんのあたまを、何回も 何回も、なでてから、父に わたしました。/おのあとのことは、なぜか おぼえていません。/ただ、ストーブのなかで、ごおっと ほのおの音が した・・・・・・/そのことだけ、よみがえってきます。」
 幼きに〈わたし〉の「心」は壊れてしまったのです。もちろん、〈父〉、〈母〉、〈中国人〉それぞれの心の物語をリアルに想像して、ここに関係づけて読んでいかなくてはなりません。そして、そのすべては物語の外部の聴き手に落とし込まれるのです。
作品中のメタプロットに聴き手の常識(ことばの制度)を瓦解させていく〈語り〉のことばばの〈仕掛け・仕組み〉があるのだと思います。
作者の〈作品の意志〉と読者の〈本文〉のせめぎ合いに、私は〈読み〉の可能性の手ごたえを感じています。
返信する
中村さんへ (田中実)
2021-07-23 15:44:39
中村さん、コメントありがとうございました。
村上の「中心がいくつもあって外周を持たない円」は存在しない一種の不条理なもの。こうした不条理が、世界を考える際には必要になります。無意識を含めた意識の外部、地下二階を抱え込んで「私」=世界だと私は考えます。
「作品の意志」は、対象作品の意志であり、読者や作者の意志ではありません。混同されやすい所なので念のため。
「あるひあるとき」の幼い「〈わたし〉の心が壊れてしまったのです。」と中村さんのコメントにありますが、拙稿ではこれはどういうことなのか論じています。
返信する
<作品の意志>をどう書くか、私にとって難問でした。 (中村龍一)
2021-07-25 10:58:27
中村へのブログ投稿へのコメントありがとうございました。
 <作品の意志>をどう書くか、私にとって難問でした。 「了解不能の<他者>としての<作品の意志>」、「機能としての作者である<作品の意志>」など考え、到達できない〈第三項〉である、作家ではなく、(作品固有のという意味で)作者と書いてしまいました。
  「私」である<本文>が「反私」を内在させているということは、第三項に向かって読者を瓦解させていく<仕掛け・仕組み>があるということ、これはいいでしょうか。
田中さんが、これまで「『私』=「私」+「反私」としていたのを、つまり、「私」=「反私」」だとしたことの意味が、私は分かっていかったのだろうと
今は思っています。
ぜひ、「作品の意志」を8月8日でも質問させて下さい。
 私の今を瓦解させられる課題を頂いたと思っています。ありがとうございました。

 以下、田中さんのご論を引用します。
  
 このお話の老境の〈語り手〉の〈私〉は、殺すか殺されるか、生きるべきか死ぬべきか、これと格闘を経てきたがゆえに、相手と自分とを区別しない、ナデナデの尊さに気づく境地にたどり着き、かつての童女の「私」とユリちゃんをかさねるのです。こう捉えることで、この童話が最も生き生きと生きると考えます。そこは識閾下である無意識領域のさらに外部、非リアリズムの領域に立つ境地であっても、ハッコちゃんと「わたし」を二人で一人とし生きる老婦人の〈語り〉の境地である。・・・・・・人が生きるには悲劇は避けられない、宿命であり、どれが正しいとか間違っているとかのロジックを最初から問わない、だからこそ、それを総体として斥ける、アプリオリに斥ける、ここにあると、わたくしは考えます。
(中略)
   〈語り手〉自身はリアリズムか非リアリズムかなど、意識せず無意識に語っていてもこの物語を対象化して語る〈機能としての語り手〉は、その働きの効果、語ることの意義を十分自覚しています。このレベルでの叙述、〈語り〉がひいては「作者」あまんきみこの〈祈り・遺言〉になります。ここでは老境の〈わたし〉である〈語り手〉を超えるもの〉、〈機能としての語り手〉は、作品の「作者」自身と考えて差し支えありません。
    
今になって、視写しながらご論を引用していると、「〈機能としての語り手〉は、作品の「作者」自身と考えて差し支えありません。」と書かれてはあっても、「作品の意志」とは書かれていないことに気づきます。
 『あるひあるとき』は〈一人称〉の語り手です。〈機能としての語り手〉の問題、「作品の意志」の問題を私はさらに考えていきたいと考えています。また、近々投稿させてください。
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