今週は、帰省する予定。
先月の法事に出席できなかったので 、
11月の「巳の日の行事」には出ると身内と約束しているため。
ところで、「巳の日の行事」って何だろう?
地元のことでも、この年齢になっても、よく分からないことの方が多い。
私の郷里は、現在の住まいから1.000㎞離れた四国山中。
親が高齢になった頃から、車で片道12時間かけて帰省する。
飛行機に乗ったところで、そこから後のアクセスが大変で、かるく7時間はかかる。
バスや電車の乗り継ぎ以上に、とても本数が少ないことが原因。
唯一の救いは、夫が同郷であること。
そんな場所に母を、独りで置き去りにしている。
父は生前、こう言っていた。
「ここは、限界集落ではない。崩壊集落なのだよ。」
それが「限界」でも「崩壊」でも、人には生きて行かなくてはならない現実がある。
どこで暮らしていようが、結局は執念であり執着なのだと思う。
年齢を重ねるほどに、それを捨てることは容易ではなくなって行く。
さて、母の暮らしをどうしたものか…
それを考えることが今、私の日常になっている。
先月の法事に出席できなかったので 、
11月の「巳の日の行事」には出ると身内と約束しているため。
ところで、「巳の日の行事」って何だろう?
地元のことでも、この年齢になっても、よく分からないことの方が多い。
私の郷里は、現在の住まいから1.000㎞離れた四国山中。
親が高齢になった頃から、車で片道12時間かけて帰省する。
飛行機に乗ったところで、そこから後のアクセスが大変で、かるく7時間はかかる。
バスや電車の乗り継ぎ以上に、とても本数が少ないことが原因。
唯一の救いは、夫が同郷であること。
そんな場所に母を、独りで置き去りにしている。
父は生前、こう言っていた。
「ここは、限界集落ではない。崩壊集落なのだよ。」
それが「限界」でも「崩壊」でも、人には生きて行かなくてはならない現実がある。
どこで暮らしていようが、結局は執念であり執着なのだと思う。
年齢を重ねるほどに、それを捨てることは容易ではなくなって行く。
さて、母の暮らしをどうしたものか…
それを考えることが今、私の日常になっている。