2022年4月30日(土) 雨ヶ池~坊がつる~星生山
時間と共に まるで霧が晴れるように
澄んだ青が広がってくる
迷って覚悟して訪れた九重の山々が
迎えてくれたように思え、喜びを感じた
ハルリンドウ
先ずは。法華院温泉へと向かおう
この林道も、昔はもう少し狭かった
今は、完全な車道の広さがある
その林道の正面に見える山肌に
令和2年7月に襲った豪雨の跡が痛々しく残っている
崩れ、流れ出た土石が 法華院温泉のテント場を襲った
その跡が 今も残っていたが
テント場は綺麗に修復されて
何事もなかったかの様に、テントの姿を見る事ができた
法華院温泉の中を通り過ぎる
法華院温泉の急登
ここも崩れた跡がある・・・
星生山が灌木の林冠から覗く中
急な斜面を登っていく
チチの技術が、足をカバーして歩くが
痛みがどの程度酷いものかは 私にはわからない・・・
無言で登るチチの背を ただ見守るだけ
少しずつ緑の衣を纏いだした樹々
星生山
懐かしき星生山の姿が青空に浮かぶ
山軍中部にある星生山の名は法性に由来する
法性は、万物の本性で、仏の知恵そのものの意
山頂を星性の辻、岩場を法性崎などとも書かれていたという
現在の星生崎の事であるが
ここは、ロッククライミングの岩場として
昔・・・?人工登攀でアブミなどを使って登り、
ハーケンを打つ音が響いていた・・・
懐かしき星生山の姿を追いながら
岩のごろつくルンゼ沿いに登っていく
今日は、あそこに行くんだと
心に言い聞かせる
スカイラインが近づいてきた
振り返ると
平治岳 北大船山・大船山 坊がつるが目の前に広がる
あのガスった天気が嘘のように
爽やかな空気と素晴らしい景色を見せてくれた
そして、急登を登り切った先は
広い砂浜?
賽の河原の様な平地が広がる
漸く、北千里ヶ浜に着いた!
北千里ヶ浜の平坦部
門番の猿岩(私はゴリラ岩と呼ぶ)
北千里ヶ浜
広~い 砂地の千里ヶ浜!
千里とは広いを現すのだが 本当に広い!
四方山に囲まれた千里浜を歩いていくが
本当に気持ちがいい~♪
そして、北千里ヶ浜の中間当たりに来ると
スガモリ越の分岐に出会う
すがもり越分岐
分岐から10分ほど登ると着くスガモリ越は
かつて 諏峨守小屋があり、登山者で賑わっていた
その経営をしていた山小屋の御主人が無くなり
諏峨守小屋も無くなった・・・
ただ・・・愛の鐘だけは今も残っている
(昭和37年1月1日に起きた大量遭難事故を受け、
倉田厚歌人から寄贈品)
大量遭難事故があった後、
北千里ヶ浜でリング・ワンデルングを防止するために
35基のケルンが作られた
しかし、今は・・・
そのケルンの存在が霞んで見える程に
貧弱になっている様な・・・
風化や災害における影響が大きいのだろう・・・
時代と共に 変わっていくのは仕方のない事だが・・・
少し、寂しい・・・
色々な出来事が、見えないにしても
この広い千里浜には残されているのだろう
「首を廻らすと専攻が一時に起こり
本御門は急に影となり 緑の山気が吹きわたり
北御門の方は明るくなって晴れてきた
三俣嵩(三俣山)の雲は
雨が池(雨ヶ池)に宿っている龍を起こし
千里ヶ浜の流れは 田能村の遊客を招く」
これは、本御門、北御門があったとされる時代の
天空の描写であろうとされる
北千里ヶ浜の流れ
スガモリ越の東北側に対峙するように
聳え立つ三俣山は 北千里ヶ浜からも
堂々としたその姿を見る それは、
守りの山神の沈黙の抱擁の様にすら感じる
天空の砂場の様な北千里ヶ浜
明治年間の中頃まで
昼なお暗いほど、各種の巨木が茂っており
杉、ブナの木が多く 樹齢500年を越え
樹周りは4~5メートルを超す巨木もあったという
この砂漠の様な北千里ヶ浜も例外ではなく
深い樹林帯に覆われていたという
それが 明治32年~33年頃から枯れ始め
明治42年頃までに すべて枯死してしまったようだ
その範囲は、三俣の裾から坊がつるにかけて、
北は 湯沢山麓から平治岳山裾、
南は、鉾立を越して 鍋割坂の上中部にまで広がったという
坊がつるの下流の暮雨瀧上部には モミ、ツガ林もあったが
全て全滅したという
西千里ヶ浜や 空池内壁の北面にも、
3mほどの寿樹が茂っていたが
これらすべて、全滅したという
それは、硫黄山の噴気活動が影響したとの説がある
そして、植物相がすべて変わり、
現在の植相の始まりとなったという・・・
ここが・・・
生い茂った樹林帯に包まれていたなどと
今の姿を見て、だれが、想像が出来るだろうか・・・
硫黄山
昔・・・天狗ヶ城よりの東側の平坦大地
北千里ヶ浜にあったとされる中宮!
廃仏毀釈政策により、明治になってすぐに、
中宮と猿岩間の隙間に
十一面観自在菩薩像などを隠したとされるが、
それは とうとう発見できないままという…
そして、北千里ヶ浜の奥から久住分れを通らずに
直接に、空池に登るルートがあったかもしれないというのだ
その空池の直下には涌泉があるというが
道はかなり険しいものとなる様な気がして・・・
それを確認するには至っていない・・・
それにしても、興味深い話は、ここ九重山には多く
至る所に信仰や自然の驚異などの逸話が隠されている
1995年(平成7)10月11日夕刻から、約300年ぶりの水蒸気噴火を起こし
東西約400mにわたり 9個の新火口を生じたという
この一帯は 火山ガスが噴出し 植物が育たず
荒涼とした風景が広がる
硫黄山尾根には、硫気を噴出する硫黄山が
今も活動をしており 誤って入り込まないように
ロープを張っているが
ガスに包まれている時は分かり難く、迷う人もいるようだ
風向きによっては 強く硫黄の臭いが鼻を突くが
今回は、その硫黄のニオイがあまりせず
穏やかな北千里ヶ浜を歩いた
さて、北千里ヶ浜が終ると
大岩のごろつく急斜面となる
またまた、チチにとって辛い登りが始まる
ここからも、忍の一文字!
宇宙人の様な人の顔?スフィンクス?
大きな岩の流れがそこにあり
崩れた跡が涸谷を作り
人はそれを頼って登る・・・
九重名物の黄色いペンキの印が
岩に描かれ 久住分れへと誘う
足元注意!転んだら痛い!ぞ?
これでもか!と立ちはだかる岩!
北千里ヶ浜 三俣山 平治岳 その間に由布岳と鶴見岳
汗が出た!
顔も、頭も、背中も・・・びっしょりだ
疲れた…と、時折足を止めて、振り返ると
見飽きる事のない・・・
千里ヶ浜の終盤からついてきてくれた景色が
頑張れと励ましてくれる
いつもそばに三俣山
その横に チョコッと平治岳
三俣と平治の間から 猫耳の由布岳がチラリ!
北千里ヶ浜も広き道のルートを残してくれている
冷たい風も、慰めるように吹く
嬉しや♪・・・だから頑張れる!
もうすぐと、頑張って登っていくと・・・
久住分れに着いたようだ
久住分れ 1643m
三俣山
阿蘇山
星生崎1719.92mと避難小屋1631.27m
久住分れから少し下った先に避難小屋が見える
いつの間にか、綺麗に建て直されており
トイレもキレイになっている!
帰りに立ち寄ってみようか・・・
だけど、今は、このまま尾根伝いに
星生山へと向かう
星生山を目指そうぞ!
久住分れと久住山
振り返れば 分岐の右側に久住山が見える
久住分れから九住山に向かう尾根!
久住山へ行く人の行列は ここからも見える
ただ・・・岩と同化して分かり難いが・・・
急な斜面の先に星生崎の岩壁が!
岩の尾根の道を確実に登って…
星生崎からの景色
星生山でクライミングだ!
遥か昔、山仲間にそう誘われて
岩の頂上で見た景色は
何十年たっても変わらない!
ここからの懸垂下降は 迫力があった事を
景色と共に、記憶している
懐かしさがこみあげてくる・・・
しかし… 星生山=岩登りの聖地と思い込み
その頃、なんと、この星生崎しか登ったことのない私
数十年の月日を経て、初めてチチと一緒に登った時
頂上はまだ先にある事を知った・・・
今は縦走路の一つとして楽しんでいるのだが
何とも、お粗末な話である・・・
さて・・・
長居は無用!
星生山の頂上を目指して 先を急ごう
チチの膝も、大丈夫そうにも見える
何も言わず、先に進んで行くチチを追いかける
西千里ヶ浜と肥前ヶ城と扇ヶ鼻
西千里ヶ浜は常に眼下に広がる
岩ゴロゴロ尾根伝い!
窓は何処じゃ~と窓探し!
星生山の窓
ここか!見つけたぞ!
見つければ、何の事はない
いつも通り過ぎていただけだった
冬期の薄暗い中で、岩の尾根伝いを歩き
いつも 窓の上を越えて歩いていたのだと気付いた
念願の星生山の窓は
西千里ヶ浜を挟んで対峙して鎮座する山、
肥前ヶ城1685mと扇ヶ鼻1698mが借景の如く・・・
窓景を、暫し楽しむ
チチも感無量の様だ!
窓の外の岩の壁
登って岩尾根に戻ろう!
今度は星生山の頂だ!
近づけば近づくほどに険しくなる
狭い尾根だが、踏み跡は一つではない所も・・・
所々、小さな分かれ道があるが
ルート選択によっては 難易度が変る
頂上が近づいた来たが…
簡単には通しません?
星生山(ほっしょうざん)1762m
大きな岩の間を登ったり
岩をよじ登ったり・・・
結構ハードな頂付近 でも、
コースによっては
歩き易い道ができているのだけど・・・
山頂は思いの外 人で賑わっていた
少し離れた風よけができそうな所で
しばし、足休めをした
三郡中部に位置する星生山は 法性に由来する
法性は万物の本性で、仏の知恵そのものの意味である
山頂を星性の辻
岩場を法性崎と書かれていたという
この法性崎は、阿蘇にも同じ地名があり
「西遊雑記」に、噴火口の穴の一つに法性崎があるとしているという
三俣山 平治岳 大船山 中央の稜線 硫黄岳
右側から久住山 稲星山 天狗ヶ城 中岳 白口岳
薄い雲が空に筋を作っている
あれあれ・・・?天気が少し崩れ始めた?
テント場に辿り着くまで、
このままのお天気でいて欲しいものだ
九重山の主たる山々の稜線を見ながら
戻る事にした
星生山の窓まではもどった・・・
だけ、星生崎は、もういいかな?
たまには 違う道を下りたい・・・
それはチチも同じだったようだ・・・
途中 ショートカットできそうな所を探し
西千里ヶ浜側へと下って行く事にした
窓を振り返って
ショートカットしよう
ちょっと道は薄いが!
西千里ヶ浜へ降りた
星生崎を下からの望む
またた、懐かしさがこみあげてくる ふと…
大根おろしの辺りで、苦戦した事を思い出す
人工で登っていたルートも
今では フリーで登れるのだろうと呟くと
隣にいたチチが ポツリという
あそこは、指の関節を使って登る・・・
登るルートを見て、シミュレーションしているのだろう
お互い、あと 10年ほど若ければね・・・
くすっと苦笑い!
久住分れの避難小屋
幾分か人は少なくなったようだ
新しくなった避難小屋を見てみようと中に入る
キレイな内装に驚く
ここで寝れそうだな・・・
避難小屋だものね・・・
以前の避難小屋の面影すらない
ただ・・・入口が水溜りになっているのは
今も昔も変わらないようだが・・・
中を見ただけで、外で休憩を取って
足を休めた所で 坊がつるまで
ゆっくり下っていった
避難小屋の中
出入り口は水溜り
久住分れ迄のちょっと上り坂
久住分れ再び
さぁ~ 戻ろう
さらば 久住分れ
北千里ヶ浜と三俣山
門番のゴリラ 一家(猿岩)
千里ヶ浜の終点
大船山と右に立中山の端
大船山は…
船が覆ったような姿をしているから名がついたという
しかし、大船山の大船については 仏教面からの説もある
【無量寿経】の一節に
「船師、大船師、群生を積載して生死の河を渡し涅槃の岸に置く」との
衆生済度の文言があり
その大きな船に因むという説である
また、大仙山とも書かれていたという
大仙は、如来の事!
麓に大仙仏乗院という寺も、あったという
山名が先か、寺名が先かは定かでない
鶏鳴山という別称もあったという
これも、ふもとの西蓮寺の山号である
大船山の下にある立中山は
塔頭からついたもので、北の麓に
法華院歴代の墓所がある
クロモジ
法華院温泉
坊がつるのテント場に戻ってきた頃
空の様子が怪しくなってきた
下りは チチの膝にかなりの負担を掛けたようだ
普段では考えられない程 チチも疲れた様子
早々にテントの中に入り
ゆっくりと過ごす
絶対、痛いとか、しんどいとかは言わないチチ
だけど、かなり堪えたのだろう
自ら、明日はゆっくりすると言った
内心、良かったと思った・・・
坊がつるで、何も考えず
時に思索に耽り、住古を偲ぶのも良かろう
自然を愛でながら
自分の時間をゆったりと過ごす時間
ここにはあまりあるほどあるから・・・
1日目終わり
つづく
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