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林芙美子邸を久しぶりに

2025-01-24 18:29:00 | 日記
ある水曜日、雨も上がり散歩には最適な小春日和。朝早めに起きたもののゴルフには寝坊だった。ゴルフ場には正直に話してペナルティ料金を免れた。

午後、記念館になっている林芙美子邸を久しぶりに訪問した。
「ボランティアの案内人がいますがどうされますか?」と受付で尋ねられる。
「何度か来てるので大丈夫です」と対応。

リビングで芙美子さんのビデオを観る。
亡くなるちょっと前にNHKが収録したものだ。若い女性との質疑がいい。芙美子さんは女性の自立を語り何でもチャレンジすることを勧める。今の時代でも違和感がない。

47歳で逝去とは若すぎた。 
その日も銀座で食の取材をしていたという。心臓を病んでいたらしいが、本人もまさかこの日に亡くなるとは思っていなかったろう。死は突然やってくる。

仕事で無理をして身体を虐め死を早めたのだろう。

告別式には近所の大勢の方が集まり悼んだ、その写真がある。愛された方なのだ。
驚愕したのは、葬儀委員長の川端康成の弔辞だ。生前の悪業を言う。どうしてあんなことを言ったのか不可解でありとても不快だ。確かに女流作家を蹴落とす悪辣なことをやっていたとのことだが、死人に鞭打つ行為だ。
作品が超一流でも人間として最低だ。作品と人格は全く違うことを学習した。ノーベル賞作家とはいえ川端さんを大嫌いになってしまった。

林邸のリビングにいると桐野夏生の「ナニカアル」を思い出さずにいられない。未発表の原稿が見つかったという設定で桐野氏が林芙美子に扮して創作した大傑作だ。一気に読んだ記憶がある。戦時下の林芙美子が生き生きとスリリングに逞しく生きた様を描いた。




四の坂のある中井地区は西武新宿線中井駅から北側に広がる一帯、小説家や画家ら文化人が多く住んだ街だ。佐伯祐三のアトリエもある。暫く行ってない。
最盛期には落合地区(目白文化村、西落合、中落合、中井、上落合、下落合)に住んだ文化人は七十人を超えるという。   






洒落ているのかもしれない。
世田谷とも違う、嘘っぽいと思われるが空気に品格を感じる。
緑も多く目白や新宿にも近い。

四の坂は両サイドを石垣にはさまれ、階段になった急な坂が上まで続いている。
一度落合南長崎経由で自転車で中井駅に行こうとしたら、工事の係員に、そこは行けないですよと注意された。目の前が石段だった。自転車を担げば行けたが迂回した、もちろん急な坂道だった。

大抵は哲学堂辺りから、妙正寺川沿いを中井に向かって歩く。

芙美子が実際に住んだ家と土地を区が買い取り、遺族から遺品の提供を受け、1992年に開館した。
昭和16年に建てられたという林邸は何度来てもいいなと思う。平屋建て、大邸宅でないが生活、作家生活には充分か。作家として売れはじめ10年余でこんな立派な家を建てられるのだ。中井通りから落合の四の坂に入ったところに、今も静かだ。




庭も宜し。
庭で少し佇んで我が家のような気分に浸った。丁度いい位の広さの庭に面して書斎や居間が並ぶ。美味しい空気を吸い喧騒から逃れた。






唐突だが、西村賢太さんが亡くなったんだなと思いだした。とても悲しい、その後の賢太の作品を読みたかった。西村さんの露悪家の演出にいつ綻びがでるか、ある種の楽しみであった。DVの多い作品は顰蹙ものらしいが、彼はそれで嫌いなる方を相手にしていない。東京を離れ横浜で再スタートしようと植木屋に勤めた時の「やまいだれの歌 」は涙なしには読めない。野毛界隈、古本屋、飲み過ぎながら会社に戻ったときな味わう酷すぎる疎外、20歳そこそこの青年には余りに厳しい。




西村さんが通っていた鶯谷の飲み屋に行っみようと常々思いながら未だ果たしてない。
西村さんは本当は寂しがり屋なんだけどな、作品も辞書なしでは読めないこともある、教養人なんだけど。
たぶん余り理解されていない。

仕事は毎日やっていた、腰を悪くしながらも、「日乗」でライフスタイルを言っていたから。
ホントは結構リッチな生まれ。
プライドがあり少し意地になっていたのか?役者みたいだった。
立派なスタイリストだ。
全作を読んだ。


実は火野正平さんの訃報で、
力が抜けた状態と混乱が続いている。
 SNSとYouTubeで多くの方々の哀悼の弁や正平さんのライブを毎日観ている。




腰痛、圧迫骨折を克服してチャリオ君との復活を疑うこともなかった。物凄く寂しい。
力が出ない。
役者としてもいい味出していた。最近では、福島原発の地元採用の最前線職員。
宅配便のオヤジ。




こんな時
中山美穂さんの訃報が入ってきた。
風呂場で寝入ってのかな?

自分もいつ潰えるか分からない。