10月6日に最初のセッションをしてからたった4ヶ月なのに、私の内面はなんて大きく変化したんだろう。
遠いアストラル界を旅して、沢山の愛と感謝の涙を流して、心の穴を埋め、全てを開放し、受け入れることの出来た私には、あれほどあったはずの悲しみの涙や寂しさの怒りや、全てを押さえ込んで何も無かった事にする辛さも無になって、今スカスカするほどさっぱりとした大きな入れ物になったような気持ち。
ゆきえさんの前に座ると、言葉が無用な気がした。
ただ彼女と分かち合いたいものがあって、最後に長い長いハグしたとき私たちはお互いの間にひたひたと流れあったとき、それが今出来ていると感じた。
私は不幸でもないし、傷ついてもいない。危険な目にもあっていないし、辛いと思えたことも本当にはつらくなんか無かった。そういう幸せな人生を歩んでいたと改めて気付かせてもらった。
私の人生が他の人と違って、ちっとも周囲が穏やかには居られないのは何故か。私には何故信仰の機会が避けられているかのように無かったのか・・・
エッセネ派のボトルがそれを良く示していた。
私の人生のすぐ横にはいつもキリスト教があった。教会。信心深い友人。聖書。牧師様。トルストイ。犠牲的な心、愛。それなのに私がそこに入れないのは気付かなければならなかったから。
「神様は、人と人が愛によって助け合う事を最も喜ばれている」
私は地上で本当に生きているとは言えなかった。人に深くかかわったり、迎え入れたりする事を拒絶し、それをしない代わりに親切にする・・というような間違った方法で人と向き合っていた。
「自分を人に開かない人は、その奥に言ってはならない言葉を抱えている。」
誰も助けてくれない!という叫びは、私自身に向けられたものだった。
今やっと、過去生との折り合いをつけて今生へ踏み出す時が来たのだ。
私を慕ってくれる人たち、信じてくれている人、愛しているといってくれる人の言葉を心の門の内側から外へ締め出すことなく感謝をもって受け入れ、さらに返すことが出来るようになりたい。
勇気はボトルからも、私自身からも、そして何より私の信じる神様から貰う事が出来るのだから。
今はただ、硬く閉ざした繭の光の当たるところに心を寄せながら来る時を待っている。
遠いアストラル界を旅して、沢山の愛と感謝の涙を流して、心の穴を埋め、全てを開放し、受け入れることの出来た私には、あれほどあったはずの悲しみの涙や寂しさの怒りや、全てを押さえ込んで何も無かった事にする辛さも無になって、今スカスカするほどさっぱりとした大きな入れ物になったような気持ち。
ゆきえさんの前に座ると、言葉が無用な気がした。
ただ彼女と分かち合いたいものがあって、最後に長い長いハグしたとき私たちはお互いの間にひたひたと流れあったとき、それが今出来ていると感じた。
私は不幸でもないし、傷ついてもいない。危険な目にもあっていないし、辛いと思えたことも本当にはつらくなんか無かった。そういう幸せな人生を歩んでいたと改めて気付かせてもらった。
私の人生が他の人と違って、ちっとも周囲が穏やかには居られないのは何故か。私には何故信仰の機会が避けられているかのように無かったのか・・・
エッセネ派のボトルがそれを良く示していた。
私の人生のすぐ横にはいつもキリスト教があった。教会。信心深い友人。聖書。牧師様。トルストイ。犠牲的な心、愛。それなのに私がそこに入れないのは気付かなければならなかったから。
「神様は、人と人が愛によって助け合う事を最も喜ばれている」
私は地上で本当に生きているとは言えなかった。人に深くかかわったり、迎え入れたりする事を拒絶し、それをしない代わりに親切にする・・というような間違った方法で人と向き合っていた。
「自分を人に開かない人は、その奥に言ってはならない言葉を抱えている。」
誰も助けてくれない!という叫びは、私自身に向けられたものだった。
今やっと、過去生との折り合いをつけて今生へ踏み出す時が来たのだ。
私を慕ってくれる人たち、信じてくれている人、愛しているといってくれる人の言葉を心の門の内側から外へ締め出すことなく感謝をもって受け入れ、さらに返すことが出来るようになりたい。
勇気はボトルからも、私自身からも、そして何より私の信じる神様から貰う事が出来るのだから。
今はただ、硬く閉ざした繭の光の当たるところに心を寄せながら来る時を待っている。