MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#1901 立花隆氏の残した言葉

2021年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム


 4月30日に80歳で亡くなった評論家の立花隆氏。気鋭のジャーナリストとして田中角栄元首相の金脈問題に鋭く切り込み一躍脚光を浴びて以降、現在まで続く「政治と金」の問題を世に問うてきました。

 その後も多くの社会問題に様々な観点から向き合い、人間のあり様を興味の赴くまま全力で追求するその姿勢は、戦後日本のジャーナリズムを支える「知の巨人」に例えられてきました。
 そんな立花氏は、1996年に東京大学駒場キャンパスでゼミを開講し、以来およそ15年間にわたり多くの教え子を各界に送り出してきたことでも知られています。

 2010年6月26日に当時70歳だった立花氏が最後のゼミ生に向けて行った(実に6時間に及ぶ)最終講義は、氏とゆかりの深い文藝春秋社により『二十歳の君へ』としてまとめられています。
 6月26日の「文春オンライン」では、氏の逝去を偲び、その一部を抜粋して紹介しているので、私もその中から氏の視点に少しだけ触れてみたいと思います。

 立花氏はこの最終講義の一場面において、集まった20歳前後の東大生に対し(三島由紀夫事件を引き合いに)「公安警察の恐ろしさ」に触れたうえで、「なぜこんな話をするかといえば、君たちがどれほどものを知らないかを教えるためだ」と語っています。

 君たち大学生は、この社会ではまだヒヨコのごとき存在に過ぎない。一丁前になったつもりでいるかもしれないが、二本足でやっと歩けるようになったばかりで、実はまだ世間様のことなどほとんど何も知らないと氏は言います。
 君たちの常識では、メディアをちゃんとウォッチしていれば、その報道を通して世の中の動きの大抵のことは分かるはずだと思うだろう。しかし、メディアの現場にいた人間として断言できることは、そうした報道をいくらカバーしても、本当に社会で起きている事象の大半は分からないままに終わるということだというのが氏の見解です。

 特に大事件の場合、報道量は爆発的に増えるけれど、同時に、伝えられないあるいは伝えきれない事実も爆発的に膨れ上がる。第一にリアリティの細部は伝わらず、その現実の背景にあるものや、持っている意味の深さなども伝えきれないと氏は話しています。
 メディアが伝えるのはいつでもリアリティの皮相の部分だけで、影の部分というか、より深いレベルの真実を知ろうと思ったら、その事件に入れ込んだレポーターが当事者たちにディープな取材をして本を書くまで待つほかないということです。

 しかも、「事件の影の部分」以上に、この社会には「そもそもの影の部分」というか、闇社会あるいは社会のダークサイドとしか言えない部分があって、そこはそもそもメディアがカバーする範囲に入っていないと氏は言います。
 公安警察などが日常的に密行捜査などを行い職務上の監視対象としているのは、概してこの「表のウラ部分」でのできごととなる。一般人があまり知らないだけで、公安警察の「表のウラ」的な部分は、実はこの社会のあちこちにあるというのが氏の認識です。

 世の中のナイーヴな人々は、「見ぬもの清し」の原則に従ってそのようなダークサイドはこの世に存在しないと思っているようだが、そんなことはない。実際は驚くほどたくさん散らばっていて、学生だった君たちが社会に出ていく際に決めなければならない重要なことのひとつは、この社会のオモテウラ構造のどのあたりに自分が入っていくかということだと氏は話しています。

 オモテだけしか知らないナイーヴな純オモテ種族として生きていくか、オモテ社会とウラ社会の間を行き来する両生類として生きていくか、それともウラ社会に身を沈めて生きていくか(それも全身どっぷり浸かるか半身だけにしておくか)。
 それは、そこを生息圏とするかどうかという問題に留まらず、そうした場所を情報圏として活用していくかどうか、あるいは、そこを経済的交易圏として認め、取引関係を保つことを容認するかどうかといったことを含む、かなり微妙な問題だということです。

 君たちはまだ知らないだろうが、日本のGDPの結構な部分が、社会のダークサイドとの交易関係の中で産み出されている。なので、選択によってはかなりの人が、社会のダークサイドと(程度の違いはあっても)一定の関係を持たざるを得なくなるはずだと、氏はここで断じています。
 「ブラック」「ダーク」の定義によっても異なるが、世の中のダークサイドとかかわりのあるお金は日本のGDPの1割は楽に越えているはず。世の中には、GDPの1割どころか2割、3割というレベルまで闇世界に侵食されている国がいくつかもあって世界GDPの相当部分が闇世界に侵食されているというのが氏の指摘するところです。

 つまり、オモテ世界だけを見ていたのでは、世界の現実はほとんど分からない。実際に社会のどこかに身を置いて経済活動、社会活動を始めれば、どこかでダークサイドと接触せざるを得ないというのが、第一線のジャーナリストとして約半世紀を生きてきた氏の(経験に基づく)実感だということでしょう。

 さて、もちろん相手は20歳かそこらの(それも)天下の東大生ですから、世の中の裏・表の話を急にされてもピンと来るとは思えません。しかし、だからといって、人は(学校の先生とか、純粋な研究者やエンジニアにでもならない限り)子供にあまり胸を張って言えないような人やお金と付き合わずに生きていくことはできなのだという、氏の戒めと受け止めました。

 確かに世の中には、慣例とか商慣行とかいった名のもとに「ボッタくり」のような理不尽な要求がまかり通っていたり、得体もしれない料金の上乗せや、顧問料やら協力金やら寄付やらと、わけのわからないお金が普通に流通しています。
 権力や利権といった大きなものの前では声に出せないことが多いのはもちろん、(身近なところでも)「お世話」になればお礼やプレゼントは当たり前の「礼儀」だし、パワハラやセクハラが起こるのもそうした土壌があってのことでしょう。

 例え公正・公平が原則だとしても、個別の扱いに関しては言葉にはならない貸し・借りの感覚や、(最近流行りの)「忖度」も社会人の常識や配慮としていまだ世の中に根付いています。

 現実の社会の中で生きていくには、理屈だけでは済まないリアルな価値基準が必要だし、身の処し方にもある種の知恵が求められる。そこにどのような態度で接するか、どこまで受け入れるかは(もちろん)人それぞれだけれども、大人になるとは、社会の一員としてそうしたものの存在をまずは受け止めることから始まると考える立花氏の指摘を、私も改めて興味深く読んだところです。



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