ウクライナにおけるロシアの武力侵攻に対し、G7を中心とする「西側」と呼ばれる自由主義諸国がロシアへ全面的な経済制裁で(歩調を合わせ)圧力をかけています。しかし、2月24日の開戦と同時に一旦は「1ドル=70ルーブル」台から「120ルーブル台」にまで下落したルーブルも4月に入るとほぼ元通りの水準に戻すなど、その効果はあまりはっきりしていません。
もとより、こうした経済制裁が強化され長期化していくと、グローバル化で進んだ経済の相互依存体制がもたらすリスクが顕在化してきます。実際、石油や天然ガスなどのエネルギー、小麦などの穀物や食品、レアメタルなどの工業一次産品の価格が、供給不安から急騰しているところであり、供給不足により関連産業の生産が大きく制約されるリスクの高まりが懸念されています。
気が付けばこの世界では、国家のガバナンスの基礎となる価値観としての「民主主義」と「権威主義」という価値観の違いが焦点となり、互いに「相容れない」ものとして認識されるようになっています。実際のところ、そうしたものが「本当にあるのか」、「どこまで同じでどこが違うのか」はよくわかりませんが、その辺りがはっきりと理解されないままに、相互不信に陥っている状況にも感じられます。
いずれにしても、両者の間でいったん大きな対立が生じた場合、それを収束させる(つまり信頼を回復させる)にはかなりの時間を要することでしょう。法の支配や民主主義という価値観を共有する(と言われている)日本を含む西側諸国。グローバル経済の主導権を彼らによるロシアへの経済制裁の長期化は、ロシアや中国などの権威主義(と呼ばれる)国々をさらに頑なにさせる可能性がある。そうした彼らが経済的な連携を強化すれば、安全保障面での緊張の高まりばかりでなく、経済の相互依存体制の見直しにより両者の分断をより際立たせることになると考えるところです。
思えば、各国のガバナンスの基本となる「価値観」は、昨日今日できたものではなかったはず。それにもかかわらず、こうして(国民の命を賭けた)抜き差しならない大きな対立が生まれているのは何故なのか。総合経済誌「週刊東洋経済」の4月23日号に、英オックスフォード大学教授で社会学者の刈谷剛彦氏が「問われる『普遍的』価値の強靭さ」と題する論考を寄せているので、その概要を小欄に残しておきたいと思います。
ロシアによるウクライナ侵攻は一般人も巻き込んだ戦争へと拡大し、そのリアルな悲惨さが世界中の多くの人々にショックを与えている。しかし、一歩分け入ってみると、それは私たちが長年築き上げてきた価値観や前提が、かくも脆く打ち砕かれたことへのショックでもあったと氏はこの論考に記しています。
無差別に人命を奪う「戦争」という最大の人権侵害に、経済に追われて過ごしてきた先進国の人々は大きなショックを受けた。国家の主権や人権の尊重をはじめ、私たちが共有していると思い込んでいた戦後的な価値の「無力さ」を思い知ったのではないかということです。
かつての東西冷戦は、社会主義対資本主義といった経済体制・イデオロギーの分断で捉えられていた。一方、今回の対立は、両陣営とも市場経済の枠組みの下にありながら、専制化民主制かといった政治体制と、それにまつわる価値観を巡る対立として理解されると氏は説明しています。
西側世界が奉じる民主主義や法の支配、人権の尊重といった原則は「普遍的価値」と位置付けられ、この価値の共有を軸に「敵」と「味方」の線引きが行われる。そして、それ自体が、言い換えれば、米国主導の西欧的価値観を受け入れるか否かの対立と言ってよいというのが氏の認識です。
東西冷戦の終結は一時期、この「普遍的価値」が世界を支配する時代の到来を期待させたが、今回のロシアによるウクライナ侵攻は、それが誤解と思い込みの産物であることを高らかに宣言するものとなった。西欧的正義を正当化してきた普遍的価値が、実際は人類に共有されているものではないことを歴史が示したということです。
普遍的価値が西欧文明の所産であることは言うまでもないが、そもそも「西側」とが「西欧文明」という観念(つまり、ヨーロッパを東西に分けて観念づけるという発想)自体、第二次世界大戦後の米国が「西」ドイツを西側の一員に引き入れ、ドイツの復興を果たすために行った政治戦略による「発明」だったという指摘もあると氏はしています。西欧文明由来の価値を「普遍」とすることで、第二次大戦後の世界秩序が作り出され、日本もそこに組み込まれた。正しさの基軸となる価値を「普遍」と称して世界に広めたソフトパワーは、経済力や軍事力に裏打ちもされていたということです。
西欧的価値を「過度に」普遍的なものとして受け入れる風潮や傾向は、とりわけ戦後の日本において特徴的なものだったと氏はここで指摘しています。しかし、にもかかわらず、現在まで続く女性差別や外国人への人権侵害、報道の不自由などに見られるように、日本の社会はその価値を未だに自分のものにしていない。それでも外交上はそのことがわきに置かれ、立派な西側の一員として振舞っているのが現在の我々のポジションだというのが氏の見解です。
現在、私たちが突き付けられている価値観問題の複雑さは、経済制裁が一見平和的な手段のようで、いずれの側でも一般市民の生活を揺るがし、とりわけ社会的弱者に大きなしわ寄せがいく人権(生活権)の侵害となることに集約・象徴されると氏は話しています。
格差の拡大、人権の軽視などに民主主義の後退があらわになる一方で、対抗するように強権化の道をたどる権威主義。経済的な覇権をめぐって故意に分断される世界は今、再びバランスを失いかけているように私にも見えるところです。
21世紀に入っても、「人の生を奪わない」という最も基本的な人権すら守ることのできない事態に直面している私たち。今、世界は価値観を足元から問い直す時期を迎えているのではないかと話すこの論考における刈谷氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。
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