MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯264 ネーミングライツを考える

2014年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム


 半年ほど前の話題となりますが、鎌倉市内の3カ所の海水浴場の命名権を「購入」した地元の菓子製造業の豊島屋(としまや)が、最終的にそれらの名前を「そのまま」にする方針を発表したとの報道がありました。

 豊島屋は、御存知の通り鎌倉のお土産の定番「鳩サブレー」を製造・販売する企業として古くから(創業は1894年とのことですので今年で創業120年(!)ということです)知られており、命名権(ネーミングライツ)獲得に当たっては「長年のご愛顧に感謝して地元への貢献を果たすため」としていました。

 そもそも鎌倉市がネーミングライツの募集を行ったのは、年間5千万円程度かかる海水浴場の維持管理費を確保しようとしたためとされています。昨年の春、「年間100万円以上、原則3年以上」を条件に、市が「由比ガ浜」「材木座」「腰越」の3つの海水浴場の命名権のパートナーを募ったところ、前述の豊島屋が年間1200万円を提供し、10年間の契約で名乗りをあげたということです。

 昨年は「海開きに間に合わない」として命名を見送っていたということですが、今年から正式に命名権を行使するに当たり全国から名称を募集したところ、応募総数393件のうちの約1割が「正式名称のままが良い」という内容だったことから、対象となった3つの海水浴場にあえて名前をつけることはぜず、伝統あるこれまでの名称のまま使用することにしたとしています。

 豊島屋の久保田陽彦社長は、名称の発表に際し「昔ながらの慣れ親しんだ名前になってよかった。海水浴場という言葉が死語になりつつある中でこの呼び名が入っていていいと思う」、「海は皆のもの。清掃費を出したつもり」などとコメントしたということです。

 さて、このネーミングライツというものには、そもそもどのような意味があるのでしょうか。

 命名権は、人間や事物、施設、キャラクターなどに対して文字通り「名前を付ける」権利であり、例えば民法では、基本的に親権を有する者が新生児の命名権を有していると考えられています。また、天体については、小惑星については発見者に命名提案権が与えられているということで、新たに発見された彗星などに自らの名前を冠したというようなニュースを時折目にするところです。

 従来から、スポーツ大会などに(いわゆる「冠イベント」として)スポンサーの名称を付加するビジネスは存在していたようですが、本格的には1990年代後半頃から、アメリカにおいてスポーツ施設等の名称に企業名を付けるビジネスが始まったとされています。

 日本においても、2000年代前半から赤字公共施設の管理運営費を埋め合わせる手段のひとつとして導入されるケースが見られるようになり、現在ではイベント会場などの集客施設のネーミングライツが売買されるのも、ごく一般的な話になってきました。

 (よく考えればそれ以前から、例えばバス停には「○○デパート前」とか「××遊園地」とかそうした名前がつけられており、公営の乗合いワンマンバスでも「次は、△△1丁目、安心眼鏡の□□前でございます。」などという宣伝が入っていたような気がするのですが、それはまあここで言うところのネーミングライツとは別の次元の話としておきます。)

 さて、こうした自治体などによるネーミングライツの販売については、税金で建設された公共施設を一私企業の名称に変更することは許されるのか…とか、公共イメージが損なわれる…などといった意見があることはよく知られています。実際、渋谷の宮下公園のネーミングライツを取得したナイキジャパンが、利用者などの反対が相次いだことで命名権行使を撤回したのは記憶に新しいところです。

 また、命名した企業に不祥事が発覚したことにより、ネーミングライツを設定した側の姿勢に批判が寄せられるケースなどもあり、自治体などがこうした権利の導入に当たっての大きなリスクのひとつと目されているようです。

 そうした話は抜きにしても、(公共施設に関してばかりでなく)「名前」をというものを金銭で売買することについては、なにか「違和感」のような感覚が伴うのも事実です。

 例えば子供の名前を売りに出した親がいたとしたら、少なくとも日本では大きな批難の対象となるでしょう。それは、「愛情を込めて命名される」ことによりその子供の将来が祝福されると、誰もが信じているからではないでしょうか。

 さらに、もともと心のどこかに「全ての物には神が宿っている」という信憑を持つ日本人にとっては、人ばかりでなく、物や場所の「名前」もある意味「神聖」なものとしての意味を持っていると言えるかもしれません。ネーミングライツの議論がもたらす「後ろめたさ」のような感覚の裏側には、このような「名前を付けるという行為には相応の責任が伴うものであり、最大の愛情と敬意を注ぐべきだ」という共通した感覚があるものと感じています。

 さて、そもそもの問題として、鎌倉市が海水浴場の名前を命名する権利を有しているかどうかについては、(法的な視点からばかりでなく)別途十分な議論が必要なのかもしれません。

 さらに言えば、この問題がこれだけ大きな反響を呼んだ背景には、ネーミングライツを(お金と引き換えに)売り出した鎌倉市の姿勢への違和感が存在しているような気がしています。ネーミングライツを販売しようという発想自体に、これらの海水浴場に対する市当局の「愛情」、ひいては個別の「名前」を持つ市民一人一人に対する「敬意」というようなものに不信感を抱いた向きも多かったのではないかと思います。

 そんな時、地域の老舗である豊島屋が今回採った対応が世間の喝采を浴びたのは、鎌倉時代からの長い年月をかけて育まれてきた地域の「名前」に対する愛情や敬意が全国の人々の心を打ったからではないかと、今回改めて感じたところです。



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