7月に始まった夏のクールのドラマを見ていると、やはり今回も医療ドラマの花盛りです。
もとより日本のテレビドラマといえば、お馴染みの刑事ものや探偵もの、学校ものや放送界の内輪ものなどが定番とされています。制作費の安さやロケの容易さなどもあるのでしょうが、中でも「医療もの」は、人の生死がかかっているだけにシリアスとコミカルの緩急がつけやすく、しばしば安易に選択され変わり映えのしないドラマが量産されるきらいもあるようです。
特に気になるのは、どのドラマでも若い医師たちの「成長」がドラマの中心的なストーリーを成しているということ。たくさんの医療従事者やコメディカルも登場しているのに、結局、医師の葛藤を中心にストーリーが展開されるヒューマンな筋立ては、正直言ってもう「おなか一杯」の感があります。
そこには、医療現場における医師を中心としたヒエラルキーが当然のように描き出され、(本来、現場では何の役にも立たない)医大を出たての新米研修医が(当たり前のように)「先生、先生」と呼ばれ苦悩したりしている。一方、「医師免許」を持っていなければ患者の命を助けるヒーローになることは叶わず、その結果、他のコメディカルはただ「それを持っていない」というだけで(はなっから)脇役扱いです。
たくさんの専門家が働いている病院なのに、結局のところ医療現場はオールマイティの医師と「その他大勢」のものであり、ドラマを楽しむ視聴者がそこに疑いの目を向けることは(あまり)ないのが普通でしょう。
昔からよく言われる言葉に「先生と、呼ばれるほどの馬鹿でなし」というものがありますが、医療現場ではいまだに医師でなければ主役とはなれない。一方、医師免許を持ったその瞬間から「先生」と呼ばれる彼らの気分は、一体どのようなものなのでしょうか。
お互いを「先生」と呼び合う職種には、医師のほかにも政治家や弁護士、教師などがありますが、そうした人たちは総じて自分たちのことを「全体として偉い人たち」と勘違いしている傾向は確かにあるような気がします。先生たちは、「先生」であるがゆえに、「お互いの領域に介入しない」「介入されない」存在として自由に振る舞うことが許容されている。併せて、それぞれのクライアントである患者や国民、依頼者や生徒などに対しても、「権威的にふるまう」ことが許容されていると考える人も多いようです。
さて(話は戻って)、こうした医師の地位を保証しているのは、もちろん「医師法」の存在です。医師法の第17条には「医師でなければ、医業をなしてはならない。」とあり、医師免許を持たない人間が「人体に危害を及ぼし又は危害を及ぼすおそれのある行為」(医業)を行うことは、同法によって固く禁じられています。どこまでが「医業」であるかは議論があるようですが、少なくとも現時点では、「医師の指示」がなければ、どんなに経験豊富な看護師や救急救命士、薬剤師であっても注射一本打つことも薬を投与することもできないのが現実です。
とはいえ、ワクチン接種の会場に行っても、実際にワクチン注射をしているのはほぼ全員が看護師で、医師から個別に指示を受けているようには思えません。医師の皆さんは問診票を(ちらっと)ながめて「熱はありませんか」「薬は飲んでいませんね」などと聞くだけで、報酬は1日当たり10万円が相場です。また、(何万円もかかる)人間ドックに入っても、医師の問診は最後の最後に形ばかりに用意されているのが普通です。ベテランの看護師さんに(もったいを付けて)個室に呼び込まれても、聴診器を当てるのが駆け出しのような頼りなげな医者ではかえって不安にもなるというものです。
病院経営のコンサルタントをしている友人に聞いたところでは、その病院に行って医師とコメディカルの会話の様子をしばらく聞いていれば、その経営がうまく回っているかどうかは大体わかるということです。患者を中心にスタッフが動いている病院には不愛想なコメディカルの姿はなく、余計な敬語も聞こえない。一方、医師ばかりがやたらと忙しそうにしている病院は、診察までの待ち時間が長く患者も何となく不機嫌だという指摘もありました。
病院は、組織でありチームであるはず。高度化した医療を機能的に動かすためにはシステムとしての「分業体制」をしっかり作ることが重要だと考えます。昭和の時代から変わり映えしない旧態然とした医師偏重の医療現場の風潮を改めない限り、日本の医療の効率化にはおのずと限界があると感じるのですが、果たしていかがでしょうか。
(#1954 「医師でなければ人でなし(その2)」に続く…)
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