小池百合子東京都知事は、「希望の党」の結成と代表就任を発表した9月25日の記者会見において(記者から)自ら新党をめぐる調整や交渉に乗り出すのか問われ、「アウフヘーベンする。辞書で調べてください。」と回答しました。
そう言えば、築地か豊洲かと市場移転で知事の判断に注目が集まった6月の記者会見の席でも、小池知事は市場移転をめぐる様々な調査や報告書が出たことを挙げ、「全部含めてどう判断するか、そのための『アウフヘーベン』が必要だ」と答えていました。
衆院が解散された2017年9月28日、民進党の前原誠司代表も、同日午後に開かれた同党の両院議員総会において小池知事が率いる「希望の党」への合流についての理解を求め、これは(解党ではなく)「アウフヘーベン」だと説明したと伝えられています。
こうしてにわかに流行語となりつつある「アウフヘーベン」ですが、「止揚」などと訳されても(はっきり言って)それほど身近なものとしては受け止められないというのが多くの日本人の感覚ではないでしょうか。
小池知事のアドバイスに従って辞書で調べてみると、アウフヘーベン(独語 Aufheben)は、あるものをそのものとしては否定しながら、更に高い段階で生かすこと。矛盾するものを更に高い段階で統一し解決すること。「止揚」「揚棄」。…と出ています。
また、Wikipedia によれば、ヘーゲルはこの言葉を「古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される」との意に用い、弁証法的発展を説明したということです。
さて、9月28日のYahoo newsでは、この難解な「アウフヘーベン」について、甲南大学法科大学院教授で弁護士の園田寿(そのだ・ひさし)氏が、興味深い解説を行っています。
例えば、現代の日本人が何気なく使っている「文化」「批判」「運命」「標準」「男性・女性」などの言葉は明治の小説家、坪内逍遥が翻訳したもので、「自由」「演説」「討論」「為替」などは福沢諭吉の手になる造語とされています。
このように、今ではすっかり日常用語として定着している言葉の中にも、せいぜい100年ちょっとの歴史しかないものが数多く含まれていると、この論評で園田氏は指摘しています。
氏は、例えば「権利」とか「義務」といった(法律上の)基本的な概念も、明治になって西洋法を輸入した際に急遽考案されたものだとしています。
明治6年に、当時の司法省に法学校が設立された当時はフランスから招聘した教授がフランス語で法律学の授業を行っていましたが、初代司法卿となった江藤新平の「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」との命により、知恵を絞って外国の法律の日本語訳に取り組んだ。
そうした(文明開化の)動きは各分野で積極的に始まり、西洋の列強諸国に(野蛮な国と)馬鹿にされないよう、法律学に限らす他の西洋の学問を(血肉の通ったものとして)次々と日本語の中に取り入れていったということです。
今では普通に使っている「哲学」「論理学」「心理学」「現象」「客観・主観」「実体」「観察」など、基本的な学問用語の多くが、そうした中で生み出されていったと園田氏は説明しています。
こうして急造・多造された言葉も、(それなりの時間はかかったものの)使っているうちに日常の世界に着地していった。法律学でいえば、日本語で法律の議論ができるようになったのは、ようやく明治の20年代以降のことだったということです。
しかし、そうした造語の中にも、(日本人のメンタリティの中で)感覚としてなかなか消化しきれず、専門の狭い領域でだけで使われ世間から浮いたままになっているケースも少なくないと園田氏は指摘しています。
氏は、欧米の専門用語は、(よく言われることですが)日常用語の広い裾野をバックに学問的な検討の中で余分な意味がそぎ落とされていき、最終的に特別な意味を持たされるようになったとしています。しかし、そこには(欧米における)日常用語や文化の下地があるので、学問的議論の中で洗練されていっても、元の意味を引きずっていることが多いということです。
これに対して、日本の場合はそのような日常用語の裾野がない専門用語が多い。このため言葉がいわば宙に浮いた形になっていて、議論が特殊でとても難解なものとなりやすいというのが、(外国から導入された専門用語の概念に関する)園田氏の見解です。
そして、氏はこの論評で、「アウフヘーベン」という言葉はその典型例ではないかとしています。
ドイツの哲学者ヘーゲルは自らの主張する弁証法を説明する中で、(1)ある主張がなされ、(2)それに反対する主張が行われ、(3)議論が始まり上手く噛み合うことで新たな次の次元に移行する…という一連の流れの下で起こる議論の次元の転換を、「アウフヘーベン」と表現したということです。
そう考えれば、「アウフヘーベン」という言葉は特に難しいことを意味しているわけではありませんが、だからと言ってその辺の女子高生が日常生活で「アウフヘーベン=止揚」という言葉を口にすることはまずないと言っていいでしょう。
しかし、園田氏によれば、ドイツでは普通のおばさんが「アウフヘーベンしましょう」と言ったりしているということです。
たとえば、週末のお茶に呼ばれたとする。彼女が大きなケーキをたくさん用意してくれていて、1つ食べるとお腹がいっぱいになってしまった場合。「もう結構です」と断ると、「じゃあ、アウフヘーベンしなさい」と言われることがあるということです。
何のことはない、ここで言う「アウフヘーベン」とは、要するに「お持ち帰り」のこと。
受けたボール(言葉)の感触を残しながら、それぞれが気づかぬ間に全く別の新たな次元に進めている、普通の会話の姿がそこにはあるいということです。
相手の言い分を否定して、自分の意見をゴリ押しする。論争で相手を負かす。あるいは、足して2で割ったり異なるもの単に積み上げる。こうした日本でよく見る光景は、「アウフヘーベン」とはまったく異るものだと園田氏は説明しています。
「もっと食べていってよ」、「いや、もうお腹いっぱい」、「それじゃお土産に持っていったら?」、「是非そうさせてください」…といった風に、議論が問題解決に向けて次の次元に飛躍していく。
いろんな人がいろんな意見を持ち寄り、そしてみんなで揉んで、そこからそれまでの考え方とは違った新しい考え方にみんなの心を統合させていくことが「アウフヘーベン」だということでしょう。
そう言われてみれば、「護憲」か「改憲」か?「民進」が「希望」か?「希望」か「自民」か?といった二者択一の中で議論が終始する日本において、「アウフヘーベン」が根付かなかった理由も何となくわかるような気がしてきます。
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