MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2143 戦争の大義

2022年04月27日 | 国際・政治

 国際政治学者の三浦瑠麗氏がフジテレビの情報番組(「めざまし8」2022,4,19)において、ロシアの黒海艦隊の旗艦「モスクワ」の沈没に関し「後に戻れない状況がどんどん積みあがっていく」とコメントしているのを耳にしました。

 ロシア・ウクライナ戦争では、既にかなりの民間人に対する虐殺が起こっているとされています。一方でロシア軍の死者も2万人に上ると言われ、双方の恨みつらみが積み上がり、両国の関係が抜き差しならない、後戻りできない状況になりつつあるということです。

 それ自体は、問題解決の手段としての軍事的な侵攻が生んだ悲劇であり、だから「戦争はいけないことだ」と言ってしまえばそれまでですが、それで問題が解決するわけではありません。

 「やられてもやられっぱなし」 そこで一方的に蹂躙されるウクライナの人々を見殺しにしてよいものか。一方、「やられたらやり返す」の応酬がもたらすのは、恨みの気持ちと空しい消耗でしかありません。

 さらに言えば、いったん始まった殴り合いを止めるには、かなりのリスクと忍耐力、そして手間とコストがかかります。だからといって大きな犠牲が生じていくのをただ座して見ているわけにもいかないでしょう。

 人々が殺し合う理不尽な戦争を目の前にして、それでも家族や同胞を守るために戦いに出ていく若者たち。ウクライナの惨状をリアリティをもって受け止められる今だからこそ、私たちも戦争についてしっかりと考えておく必要があるのではないかと感じるところです。

 そんな折、総合経済誌の「週刊東洋経済」の4月16日号に、「戦争の大義を考えることの必要性」と題するコラムが掲載されていたので、参考までにその内容を小欄に残しておきたいと思います。

 「大東亜共栄圏」という独り善がりな大義を掲げて敗戦した苦い記憶を持つ日本人の中には、「戦争の大義」などと書けば顔をしかめる人も多いだろう。ただ、ウクライナの現状を見ていると、やはりこの問題は避けて通れないことがわかると筆者はこのコラムに記しています。

 今、世界の人々は、「大義」の有無が戦争の帰趨に大きな影響を与えることを現在進行形で目撃している。ウクライナは兵士の士気が高く、大統領の支持率も90%以上。対するロシアは国内の言論統制を強めてはいるものの、一部の著名人や政治家は戦争反対を打ち出していると筆者は言います。

 当初、ロシアは「特別軍事作戦」の理由として、ウクライナによるジェノサイドからの東部2州を守ることなどを掲げたが、国際司法裁判所では「ジェノサイドの事実はない」という判決を下している。また、ロシアは東部にとどまらず首都キエフも含む形で侵攻しており、その言い分に大義がないのは明らかだというのが筆者の見解です。

 大義なき戦争は国際社会の支持を得られず、兵士の士気も上がらない。当初、「二日間で陥ちる」と言われたキエフが死守され、ロシア軍に大きな被害が出ているのもその表れだということです。

 現在の日本では反戦・避戦の思想が強く、戦争に大義などないという考えが一般的だろうと筆者は話しています。そのこと自体は大いに歓迎されるべきだが、(ウクライナのように)戦争は向こうからやってくることもある。その時、降伏するのか、それとも応戦するのか。

 テレビの出演者(注:フジテレビ系「めざまし8」にコメンテーターとして出演していた元大阪府知事の橋下徹氏)が、「ウクライナ人は命を守るために逃げるべきだ。ロシアが悪いがいったん降伏すべきだ」と説き、大きな議論を呼んだのは記憶に新しいところです。

 この発言に対し、筆者はこのコラムにおいて「人命は地球よりも重いという考えに基づくものだろうが、本当に命よりも大事なものはないのか(それともあるのか)?」と問いかけています。

 これが「危うい」議論であることは承知しているが、実際にウクライナは降伏を拒否し(多くの犠牲を払いながらも)応戦を続けている。大統領も亡命せずにとどまっている。そうしたことを考えれば、危ういからといってこの問題から目を背けてばかりはいられないというのが筆者の見解です。

 例えば、中国が尖閣諸島に攻め込んできた場合にどうするのか。日本人は大義を含めて考えておく必要があると筆者は言います。そこは、海鳥くらいしか住まない小さな無人島。都市が破壊された今回と同様に、国際社会が同情の目を向けてくれるとは思えないし、米軍ですら前面に立ってくれるかどうかは怪しいということです。

 そうした中、向こうからやってきた戦争であっても、応じれば自衛隊員の戦死は避けられない。彼らに命を懸けさせるには、人命により重い守るべき「何か」がなければならないと筆者はしています。

 それは、(一言で言ってしまえば)領土や主権というものになるのだろうが、そうした抽象的な言葉で(戦地に向かう)彼らも国民も納得できるのだろうか。(そこには)もっと具体的な、国民から支持される大義が求められるのではないというのが、このコラムで筆者の指摘するところです。

 さて、いざ有事を迎えた際に、一旦(国土や国民を)「守らない」と公言すれば(もちろん)機に乗じて攻め込まれ、全てを失う可能性があるのは仕方のないことです。

 戦争は、善と悪との戦いではなく、問題解決の手段として冷徹な判断のもとに始められるもの。で、あればこそ、何を犠牲にして何を守るのかを議論することが安全保障の第一歩になるとこのコラムを結ぶ筆者の意見を、私も興味深く読んだところです。

 



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