MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2000 格差の固定化と「親ガチャ」

2021年10月26日 | 社会・経済


 「親ガチャ」という言葉があるそうです。「ガチャ」というのは、もともと「カプセルトイ」と呼ばれる抽選式で玩具を購入するための機械のこと。正面のノブをガチャっと回すと、コロッとプラスチックのカプセルが出てくる昔からある例のアレです。

 それが転じて現在では、ソーシャルネットゲームにおいて、一定額の課金をすることでカプセルトイのようにランダムにアイテムなどを手に入れることができるシステムを指すことも多くなりました。

 いずれにしても、詰まるところ「ガチャ」は運次第ということ。「親ガチャ」とは、若者たちがネット上のスラングとして使い始めた言葉で、どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまう(だから努力してもしょうがない)という、いかにも残念な文脈で使われることが多い言葉としてメディアに定着しつつあります。

 そういえば、私が育った昭和の時代でも、裕福な友達が持っているおもちゃなどを母親にせがんだりすると、「他所は他所、ウチはウチ」「そんなに羨ましいなら、タカシくんちの子供になればいい」などとよく叱られたものです。

 今から思えば「一生懸命育ててくれている親に対して申し訳ないことを言ったな」と分かるのですが、経済的分断が進む社会に生きる今どきの若者たちは、生まれた家や経済状況を一生背負っていかなければならない「宿痾」のように受け止めているのでしょうか。

 さて、若者たちのこうした「所詮、親ガチャ」「失敗ガチャ」という声を、自分の人生が上手くいかないこと親や社会のせいにして「努力することを諦めている」と批判する言説を(最近)よく耳にします。しかし、人よりもかなり努力しなければ(「人並み」の状況に)這い上がれなかったり、いくら努力しても報われないといった環境が、(社会のあちこちに)あるのは厳然とした現実です。

 親によって人生を左右されてしまう。ことは貧困の問題だけではなく、例え裕福な家庭であっても、親から注がれる愛情だったり、親の精神状態だったり、家庭の人間関係だったりと、子供の人格形成には様々な要素が影響を及ぼします。時にはDVや性的虐待など、状況によっては心に深い傷を抱えて生きていかなければならない深刻な状況などもあることでしょう。

 Newsweek日本版の10月3日号では、近年問題化している社会階層の固定化とそれに伴う「親ガチャ」の声の高まりに関し、ウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長の望月優大氏が「親ガチャ論議が広がる日本は『緩やかな身分社会』」と題する論考を寄せています。

 近年、話題になることが多い「親ガチャ」というこの言葉。若者の間で「どうせ親ガチャなんだから」という呟きがある種のカタルシスをもたらすのは、日本が建前と現実の乖離した社会だからだろうと、望月氏はこの論考に記しています。

 自分の人生の多くの部分は親や家庭によって決まってしまう。にもかかわらずどんな親のもとに生まれてくるかは運任せ、金持ちの家庭ならアタリ、貧しい家庭ならハズレとなる。

 それ自体は身もふたもない話だが、戦後の日本は公教育を通じて建前としては「平等な機会」を提供してきたものの、実際には生まれ(出身家庭の社会階層や出身地域)に起因する最終学歴格差が存在する「緩やかな身分社会」だったというのが、この論考における氏の認識です。

 現在の日本はもちろん身分社会ではない。しかし、人生のスタート地点での不平等を社会的な仕組みで完全に打ち消すことはできておらず、東大生の家庭の年収が平均よりかなり高い事実なども指摘されてきたと氏は言います。

 もちろん、人にはそれとは違ったレベルでの「生まれながらの恩恵」があり、もう一方には「ハンディキャップ」がある。厳しい境遇からの立身出世話が好まれるのも、結局はそれがレアであることを私たちがよく知っているからだということです。

 しかし、そうした中でも、高学歴や高所得などで「成功」を遂げた人は、それを自らの努力や能力の結果と思い込みがちだと氏は言います。そして(ともすると)同じ尺度で他人を「失敗した」「努力が足りない」と見下してしまうというのが氏の指摘するところです。

 現代の能力主義社会において、社会的格差は単に経済的な問題にとどまらない。むしろ不当なおごり、敬意の不足、屈辱や怒りのほうにより強く関わっているということでしょう。

 日本社会が、こうした建前と現実が乖離した「非公式の身分社会」であるにもかかわらず、これまで政治や教育はその事実を直視してこなかったと、氏は言います。

 生まれの不平等を親のみに帰責するのは間違っている。親たち自身もこの同じ社会で生まれ、育ち、生きてきたのだから、問題は世代を超えて格差を再生産する社会の在り方自体にあるということです。

 気が付けば、出自などによって固定化された格差が、「能力主義」の美名のもとに強固に裏打ちされ、若者たちの未来への諦念や自信の喪失につながっているのではないか。

 建前と乖離した現実を前にして、「こんな社会で頑張っても仕方がない」と言う人もいれば、「社会のせいにせずに自分で努力しろ」と言う人もいるだろう。しかし、少なくとも、この社会にこれから来る多くの子供たちのためには、社会的流動性が低く不平等が固定化した社会は変えたほうがいいとこの論考に記す望月氏の指摘を、私も重く受け止めたところです。



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