MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2001 生きてるだけで丸儲け

2021年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム


 最近、若者の間でよく口にされるようになった「親ガチャ」とは、どのような親のもとに生まれてくるかによって人生が決まってしまうとする(いわゆる)ネットスラングのひとつです。

 子供は親を選べない。ガラガラポンでいったん発射台の高さが決まってしまうと、現代社会では、先を行く者を追いかけ乗り越えるのはもう至難の業だということでしょう。

 「格差」は社会につきものとはいえ、現代の若者たちの気持ちの奥底には、「一億総中流」を実感していた昭和の高度成長期に育った私たちには理解できない閉塞感や、苛立ちのようなものがあるのかもしれません。

 江戸時代のような身分の固定した社会が人の心に諦念を生み、個人の努力と社会の発展を妨げてきたのはおそらく事実でしょう。しかしその一方で、(その時代)身分は自己責任ではないと捉えることが、人の心にある種の安定をもたらしていたことも容易に想像できます。

 (それに引き換え)現在主流の弱肉強食のメリットクラシー(能力主義)が生み出す自己責任の競争社会は、それが行き過ぎれば人の心に新たな諦念を生み、すさんだ心情や風潮をもたらすことは否定できません。

 負けるのは自分の能力や努力が足りないから。個人の能力を頼りにそうしてひたすら戦い続けなければならない社会は、それはそれで厳しくもあり、きっと生きづらいことでしょう。

 そう、「親ガチャ」の話でした。どういった親の下に生まれるかは、自分では決められない。親に向かって「生んでくれと頼んだ覚えはない!」と叫ぶのは、思春期を迎えた生意気盛りの少年少女の通過儀礼のようなものです。

 程度は違っても、いつの時代にも「親ガチャ」はあったことでしょう。そして、それは多くの場合、純真無垢の子供たちが社会の不条理に目をむける最初のきっかけになってきた。どうして我が家はタカシくんちとは違うのか。どうして我が家は狭くて古くて、欲しいおもちゃを買ってもらえないのか。

 しかし、そういった現実を受け入れることが、大人へのスタートラインになっていたこともまた想像に難くありません。人の置かれた環境は、能力は、見た目は、もちろん人それぞれに違っている。それは、人として生きる上での前提ともいえる、人間社会の所与の有様(ありよう)と言えます。

 見方を変えれば、そこに端を発する様々な葛藤は、人を成長させるうえで避けては通れない道なのかもしれません。人生には思うようにはいかないことがある。それこそが、人が人生や社会について考える唯一ともいうべききっかけになるのでしょう。

 そう考えれば、他者を「羨ましい」と思ったときに、「いつかは自分も」と希望を持てる環境が与えられていることが、人間を成長させ社会をより良くしていくためにはどうしても必要な要素のようにも感じられます。

 個人の置かれた境遇や持って生まれた能力や性格によって、望ましい環境の在り方というのは様々に違っている。人は(否が応でも)そうした環境の中で生きていかなければなりません。

 それでは、そうした多様な人々が暮らす社会において、それぞれが上手く折り合いをつけながら、それなりに満足できる人生を送っていくにはどうしたら良いか。

 私もいろいろ考えてみたのですが、 そこで最も重要になるのは、今こうして生きていることに感謝し、自分が「生かされている」存在であることを謙虚に感じることではないかと感じるところです。

 同じ努力をするとしても、一生を生きていく上で人を幸せにするのは「人生に奇跡はない」と考え過ごすことか、それとも「人生は奇跡ばかりだ」と考えて過ごすことか。

 人生は有り難いもの。だから、まずは与えられたもの、今持っているものを大切にして、そこから何ができるかを考える。(月並みではありますが)今ある場所から未来を考える前向きさが、結果として生きる支えとなるのではないかということです。

 「生きてるだけで丸儲け」というのは、「お笑い怪獣」と呼ばれる明石家さんま師匠の名言です。

 努力が必ず報われるとは限らない人生において、持って生まれた能力だって実力だって、所詮、運のようなもの。例え本当の「機会平等」というものが幻想であるとしても、それなりの成果と達成感を感じることができれば、人生というものもそんなに悪くないような気がします。

 発射台の高さがどのくらいであるにしろ、まずは歩き出せたことに感謝し努力した人が報われる社会が、彼らに勇気と希望をもたらすのは言うまでもありません。

 人々の希望に支えられ、「親ガチャ」上等と、そう言ってのけられるような強い気持ちを持てる社会であることが、まずは重要になるということでしょう。

 願わくは、例え今は隣の家に届いたカラーテレビが羨ましく見えたとしても、(少なくとも)「いつかは我が家にも」と思えるような将来に夢を持てる社会であってほしいと、望月氏の論考を読みながら私も改めて感じたところです。



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