こうして、来年春までの「改元」が予定されている元号ですが、総合情報誌「GQ」(2月19日号)では、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が「元号は、なかなか味のある文化的な仕掛けである」と題する興味深いコラムを寄せています。
今回の新天皇の即位に当たり、この際「元号」を廃して西暦に統一してはどうかという意見もあるようだが、「僕はそうは思わない」とこのコラムに内田氏は記しています。時代の区分としての元号はやっぱりあった方がいい。そういう区切りがあると、制度文物やライフスタイルやものの考え方が変わるからだということです
内田氏の父親は明治45年(1912年)1月生まれで、「明治生まれの」最後の世代だったということです。そのためか、その後の人生では新しいものは何でも「軽佻浮薄」で面白い話は何でも「荒唐無稽」と断じ、ことあるごとに「明治は遠くなりにけり」と慨嘆していた。「明治男の気骨」を体現するために無意識の努力を全生涯を通じて続けていたような人だったということです。
そう言えば、いわゆる昭和一桁生まれだった私の父親も、戦前の教育をまともに引きずったまま、そこをバネにして戦後の高度経済成長を駆け抜けた「その時代を体現する人」の一人だった様な気がします。
内田氏は、人が自らの過去や出自について語る「物語」は、おおかたが「模造記憶」だと喝破しています。現実には経験していないことをあたかも経験していたかのように記憶し、そこに基づいて人格や個性を形成することも多い。模造記憶や幻想に基づいて皆が価値観や美意識を共有することで、時代に共通する味のある文化的なたたずまいが生まれてくるということです。
氏は「元号」を、尺貫法みたいなものだとしています。メートルとグラムが世界標準なのだから、それに合わせろというのも確かに合理的だが、やはりお酒を飲むときは「二合徳利」とか「一升瓶」でないと酒量が計れないし、白髪は「三千丈」の時間の経過や「万丈の山、千尋の谷」の険しさを共有する必要があるということです。
こういう度量衡は、それぞれの集団の歴史的経験の中から出てきたもので、一朝一夕に捨てることはできないと内田氏は言います。世界標準とは別にローカルな度量衡が並立していることはそんなに不合理な話ではなく文化的な豊かさだということです。
そういう意味で言えば、元号のない国もそれに代わる(独自の)時代の区切りを持っていると内田氏は説明しています。
イギリス人は王が交代するごとに時代を区切ることが多く、「ヴィクトリア朝的(Victorian)」といったら旧弊で、上品ぶって、偽善的で、抑圧的という時代の風儀を意味し、「エドワード朝的(Edwardian)」という形容詞には「物質的豊かさ、絢爛豪華、官能的」といったコノテーションがしっかり貼り付いているということです。
フランスにも元号はないけれど、政権の交代と装飾様式の違いをセットにして、「ルイ16世様式」「総裁政府様式」「帝政様式」と細かく区分していると氏はしています。政体の変遷と建築や家具の様式の流行の間には何の関係もないはずですが、なぜかフランス人は政体が変わるごとに美的感受性をリセットしていたということです。
一方、アメリカという国には王様も政体の変遷もありません。氏によれば、なのでアメリカ人は仕方なく「10年(ディケイド)」を単位にして時代を区切っているということです。
「狂騒の20年代」と言えば、第一次大戦後から世界恐慌に至るまでの米国の社会、芸術および文化の力強さを強調するものです。「50年代ファッション」は第二次大戦が終わった1950年代に世界中で花開いたクラシックでエレガントな女性ファッションを指す言葉で、「60年代ポップス」はモータウンレーベルからザ・ビートルズに代表されるグループサウンズへ、さらにはベトナム戦争への反戦機運がもたらしたフォークロックにつながる激動のミュージックシーンを表しています。
西暦の10年区切りで人間の生き方が変わるはずはないのに、ディケイドが終わりに近づくと、アメリカ人は何だか生き方を心機一転して、新しいことを始めなければならないような気分になるようだと、氏はこのコラムで述べています。
年が替わると去年のことは水に流すのは日本人だけだとよく言うけれど、米国人だって1950年代のポップスと60年代のポップス、60年代のロックと70年代のロックを聴き比べると「ディケイド」の区切りで音楽の作り方聴き方を変えていることがよくわかるということです。
世界中のどこでも、人々は「元号みたいなもの」を使って時間を区切り、生き方にめりはりをつけていると内田氏は言います。
いったん時間を区切り、それを振り返ることでこれを総括して、次の時代にむけた変革の足掛かりにしていくというのが、時代や世代を積み上げてきた人々の叡智だということかもしれません。
だから、「元号」が世界にないからと言って、「日本だけの陋習だ」といきり立つ必要はないのではないか。時代の善意を受け止めた(時代に流されない)明治男や昭和のお母さんには、それなりの変わらない価値や意味があると考える内田氏の視点を、私もこのコラムから興味深く受け止めたところです。
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