MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

♯726 文科省は必要か?

2017年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム


 事務次官ら7人が懲戒処分された文部科学省の組織的天下り斡旋問題が、収まる気配を知りません。

 中央官庁による利害関係先への天下りのあっせん禁止など、国家公務員の再就職規制が厳しくなった2008年末から昨年9月末までの間に、文部科学省の管理職経験者の延べ199人が退職後90日以内に再就職しており、そのうちの半数以上となる延べ102人が大学などの教育機関で役職を得ていたことが分かったと2月5日の東京新聞は伝えています。

 文部科学省が政府に届け出た再就職報告を同紙が集計したところ、教育機関への再就職した同省OBの内訳は、国公立が大学・高専14人、私立が大学などの学校法人88人。職種別では、教授や講師など教職27人、大学の理事や事務局長などの事務職74人、不明1人だったということです。また、国家公務員法では、在職中に利害関係先への求職活動をすることを禁じていますが、102人のうちの41人は、文科省を退職した翌日付で再就職していたとされています。

 この問題に絡み2月7日の朝日新聞では、このあっせんの仕組みを維持するため、文部科学省では人事課OBを仲介役にして「天下り」あっせんを繰りかえしていたことがわかったと報じています。記事では、同省が仲介役のOBの事務所家賃や秘書給与を賄うため、複数の関係団体に財政負担を持ちかけていた可能性が高いとし、同省が天下りに組織的に関与してきたことは明らかだと指摘しています。

 さらに同日の毎日新聞は、文部科学省の現役の幹部職員が国立大学法人などに役員の肩書などで出向する「現役出向」の実態にも触れています。

 記事によれば、今年の1月1日現在で全国の83校に計241人の文部科学省職員が、大学運営に直接携わる理事や副学長、事務局長といったポストに現役出向しているとういうことです。

 こうした「出向」について文部科学省は、「職員が現場感覚を養い、出向経験を行政に反映できるメリットがある」と主張しているということですが、(受け入れる側の)大学関係者や専門家からは「学問研究の自立性が損なわれる」と廃止を求める声も出ていると記事はしています。

 言うまでもなく国内の大学には、国・公・私立を問わず運営費交付金や経常費補助金などとして国から相当額の税金が投入されています。また、指導官庁としての文部科学省と大学などの高等教育機関は(いわゆる)特別権力関係にあることから、OBや職員の受け入れを求められたら、大学側がこれを拒むのはなかなか勇気が要るであろうことは改めて指摘するまでもありません。

 さて、政府の再就職等監視委員会の調査に端を発した今回の問題を受けて、2月5日の朝日新聞のコラム「日曜に想う」では、編集委員の曽我豪氏が「100年前の文部省廃止論」と題する興味深い論評を寄せています。

 曽我氏はこの論評で、戦前の日本経済を救った国際金融政治家として知られる高橋是清に触れています。

 是清は、金融・財政政策に関しては稀代の合理主義者であったと同時に、二・二六事件で暴走する軍部の凶弾に倒れたことからも分かるように、自由主義がもたらす恩恵を信じ、官僚主義や軍国主義と闘った政党政治家としての顔を持っていると曽我氏は記しています。

 氏によれば、高橋是清は、原敬内閣の蔵相だった1920年に提出した「内外国策私見」において文部省の「全国画一的」な教育行政を憂え、「発奮努力の精神を喪失せしむる」と弊害を指摘したということです。

 曰く、「小中学校の施設経営監督は地方自治体に委(まか)せよ。大学への国庫補助は必要かもしれぬ。だが学長選挙も内部行政も文部省の手を煩わせず大学に自治の精神を発揮させよ。官立大学の特典を廃止し私立大学と自由に競争させ学術の発達進歩を計れ。文部省は一国にとりて必ずしも必要欠くべからざる機関にあらず。」

 つまりその結論は、表題にも明白なように「文部省ヲ廃止スルコト」だったということです。

 さて、言うまでもなく文部科学省は、私立大学に対し設置認可などの許認可権を持ち補助金を交付する立場であり、(「利害関係」などという生やさしいものではなく)、大学側から見ればまさに生殺与奪の権を握る「特権」的な存在だと曽我氏は説明しています。

 にもかかわらず、大学担当の前高等教育局長が早稲田大へ「天下る」よう組織的にあっせんしていたとすれば、それは官製談合事件の反省から改正された国家公務員法の禁止のルールを踏みにじる、違法かつ公務員倫理にもとる行為だということです。

 さらに氏は、それでなくともこの役所の場合、時代の変化と並走しようとする責任意識が感じられないと厳しく続けています。

 文部科学省が(通知一枚で)繰り出すのは、常に教育的な意義よりも管理を優先させる「べからず集」ばかり。18歳選挙権の開始に当たり「教員が個人的な主義主張を述べることは避ける」と通知し、注意点や禁止、規制を事細かく列挙したことからもわかるとおり、その「指導」は現場の「発奮努力の精神」を萎えさせるものでしかないという指摘です。

 なぜ今この時代、この国において、科学でも文化でも体育でもなく、文教事務を国家が統括する「文部」を頭に冠した役所が存在する必然性があるのか。

 責任を負うべきところで身をかわし、自由に任せるべきところで管理を持ち出し、特権を慎むべきところで守ろうとする。そうしたちぐはぐな行動様式を改めない限り、その必然性を(国民に)感じさせることは難しいのではないかというのが、この論評における曽我氏の認識です。

 「文科省、政府への信頼を損ねた。万死に値する」。7日に開かれた衆院予算委員会の天下り問題に関する集中審議において、文部科学省の前川喜平前事務次官はそう答弁しています。確かに、山積する教育現場の問題を鑑みれば、文部科学省は(指導監督を受ける立場の)教育機関に、OBの受け入れを強要している場合ではないでしょう。

 さて、そうした状況を踏まえれば、「文部科学省は本当に必要な官庁なのか?」という朝日新聞の厳しい指摘に官僚として発奮しないようであれば、同省が不要な役所とみなされても(ある意味)仕方のないことなのかもしれません。

 曽我氏の言うように、百年たっても「必要欠くべからざる機関」であることの挙証責任が文部官僚自身にあるとすれば、今こそがそれを広く明らかにするべき時だと、曽我氏の論評から私も改めて感じた次第です。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿