先頃、ブリジストン美術館の「描かれたチャイナドレス-藤島武二から梅原龍三郎まで」展を見た。1920~30年代の近代日本の画家たちは好んで「支那服の女性像」を描いたという。小規模ながら充実した展示で、近代日本が中国へ向けた視線を知ることのできる企画だった。
「チャイナドレス」とは和製英語で、じつは中国語にも英語にも存在しない言い方だ。ふつうこの言葉で連想される、立て襟で右胸に切り替え、脇にスリットのあるワンピース型のドレスは、中国語では(新式)旗袍(チーパオ)と呼ばれる。
チーパオは、もとは清朝時代に満洲貴族(旗人)の女性の着ていた直線的なゆったりした衣裳のことだった。西太后の写真などにみられるドレスである。
清朝が倒れて中華民国となると、中国の女性たちは新時代に相応しい服装を模索した。西洋文化が流入し商業的消費文化が発達する上海する新興都市上海では、さまざまなスタイルの衣装が流行り廃りを繰り返したが、結局、人々の支持をえて定着したのが、チーパオだった。清朝時代のものとはもはや全く異なったデザインだが、すらりとした立ち姿の美しいチーパオは、新生中華民国のシンボルとされ、1929年、蔣介石の国民政府は儀式の際に女性が着用すべき礼服と定めた。対する男性の礼服は、立折襟のスーツの中山(ちゅうざん)服である。
中山服は、中国革命の父・孫文が考案したので彼の中山という号で呼ばれるようになったとされる。(のちにこのスーツは中華人民共和国で広範な人民に着用され、日本では人民服の名で知られる。)だからチーパオと中山服は、民族的な衣装と言うことはできても、けっして伝統衣装ではなかった。
チーパオを着ていたのは、当時の新しい女性、つまり近代的な学校教育を受けて都市で暮らす中産層以上の女性たちである。労働者や農村の女性は藍染めの上着とズボンのスタイルが普通だった。そのような意味でもチーパオはモダンな衣装だったのである。
戦前の日本人画家が描いた「支那服の女性」の衣装は、そのような変化の時代を映して清朝時代の旗袍に近いものから(新式)旗袍(チーパオ)までいろいろで、なかには想像で描かれたものもある。美術史家の池田忍は、「「支那服の女」という表象は、帝国日本の肥大する欲望の象徴」であり、「(女性の)身体と「中国」とを重ねる行為は、「中国」という国家の同一性を挫こうとする侵略のプロジェクトと一体であった」という(「「支那服の女」という誘惑」『歴史学研究』765)。だとすると、両大戦間期にチーパオで中国が表現しようとしたものと、日本が「支那服」に見ようとしたものとには、相当な距離があったということになろう。
その後、日中戦争をへて中華人民共和国が成立した後も、中国の都市女性たちはチーパオを愛用し続けた。しかし文化大革命が始まると、チーパオは「ブルジョア的だ」とされて批判の対象となって一掃される。人々は男女を問わず人民服(中国語では「中山装」)を着るようになり、その画一的な服装の様子は、「青い蟻のような人民の海」などと呼ばれた。
やがて改革開放時代が来ると、人々は人民服を脱ぎ捨て、男性は背広、女性はスカートの洋装が広まり、多様な服装が楽しまれるようになった。近年、経済発展と民族意識の高まりの中で、中山服とチーパオには、また静かなブームが起きているという。とはいえもはやチーパオは日常的な服装ではなく、特別な時のパーティー用でなければ観光客が楽しむ民族衣装である。「チャイナドレス」と日本で呼ばれるだけでなく、中国人でも伝統的な民族衣装だと思いこんでいる人が多い。人々が昔からのものだと思っている慣習などには、じつは比較的新しくナショナリズムと結びついて創出されたものが少なくなくて「創られた伝統」と呼ばれるが、チーパオ(=「チャイナドレス」)は、まさにそのような事例なのである。
(下の写真は、1930年代の中国女性界のリーダーたち。中央の蔣介石夫人宋美齢はじめ、ほぼ全員がチーパオ姿である。)