しかし次第に彼の魅力に憑りつかれて50点以上に上る作品を模写することになった。自分の中では最も影響を受けた画家だと言える。
しかし次第に彼の魅力に憑りつかれて50点以上に上る作品を模写することになった。自分の中では最も影響を受けた画家だと言える。
Pinoの次に僕がとりつかれたのはブグローでこれを全部摸写したくなった。ブグローは当時のフランスの画壇にとって長老格であってその頃出現し始めた印象派の絵を総じて未完成の絵画とみなして取り合わなかった。僕は彼の完璧主義を学ぶつもりでいたが、それがとても難しくて手に余るので、damn Bouguereau, damn Bouguereauと何度も毒づいたものだった。夢にまで出てきて夢の中で喧嘩をしていたことも覚えている。
Claire とわかれた僕はすぐにマラッカへと旅立つ準備をした。1年以上も働いたので失業保険を6か月受給できる勘定だったが、僕はもう一日だって日本にはいたくなかったのですぐに飛び出した。2006年三月のことでそれから3か月マラッカで夢のような毎日を送った。例によってAdelineの家に間借りさせてもらった。一日10RM の家賃で6畳ほどの個室が与えられた。この値段は汗臭いゲストハウスのドミトリーのベッドと同じ値段だった。どれだけ僕は恵まれていたことか。今でもAdelineにはいつも感謝している。
美貌の家主Adeline
日本人がどれほど狭いアパートに閉じ込められているか分かるだろう。このリビングだけで僕の今の2DKの市営住宅はすっぽりと収まってしまう。
日本料理をどうかご賞味あれ。
誰もいない50メートルプールを一人で独占するなんざ絶対に日本
では体験できない。
ホームレスの犬と思しきもみんな僕には懐いてくれる。
冬の間太陽とトロピカルフルーツとの国東南アジアで過ごしたClaire がこの年の暮れ自分の4畳半一間のアパートへ来るという。春にはカナダへ帰るので3か月間日本に滞在したいというのである。僕のアパートは余りにも惨めたらしいので、あなたには耐えられないでしょう、と返事をしたのだがどうしても来たいというのである。それで年の暮れに彼女を迎えて年越しの祭りを西宮神社で体験した。それからの隔日の非番の日は神戸大阪京都奈良とあちこち案内した。アパートに風呂はないので隔日に銭湯へ通った。彼女は銭湯が大のお気に入りで毎回2時間楽しみ茹でだこのような赤い肌をして出てきた。毎日遊び暮らしたのでこの3か月は貯金も出来ず絵の勉強もできなかったがとても楽しい毎日だった。そして娘のいる倉敷も案内した。3月の末になって彼女は成田から飛び立つことになっていたので青春18期切符で成田まで送っていった。途中日比谷公園、銀座、上野を駆け足で案内した。桜が見事に開花していたのが何よりの彼女への土産になった。
10月の初めにカナダを離れてバンコクを目指した。やはり日本の上空を飛行しているのだが最初に着陸したのは台湾の南の都市高尾だった。そこで5,6時間待たされてやっとバンコク行きに搭乗できた。バンコクでは迎えに来てくれていたGermain(僕の恋人であるClaire の元亭主)に従って彼のアパートへとタクシーを走らせた。彼はタイ人の女性とワンルームのアパートに同棲していて僕はClaireが手配してくれていたGermainの隣室に落ち着くことになった。そこでClaire がやってくるのを待つのである。Claire は春から初冬にかけて母親の(自家菜園)を手伝うために帰ってくるのだが、雪に閉ざされてしまう冬の間はいつも東南アジア諸国を旅しているのであった。40代でひと財産作ったのでもう労働には携わらないのであった。ややあって彼女が到着したので僕たちは仲睦まじく暮らした。夕食はいつもGermainの部屋でにぎやかに食べたGermainの恋人の家族も参加するので毎日がパーティーのようだった。その年の暮れ、2004年12月26日にスマトラ島沖大地震が発生し、タイのプーケットなども甚大な被害を被った。僕たちは犠牲者の冥福を祈った。
都市が明けてすぐ僕は日本を目指した。旅の軍資金がなくなってきたので一年日本でタクシー運転手をするつもりであった。そして昔の古巣に舞い戻ったのだけど、1年たてばまた脱出出来るのだからと自分に言い聞かせて仕事に励みせっせと倹約して次の旅費を貯めた。4畳半一間共同便所の古い木賃住宅だが人間次の目的があれば惨めさは感じないで済む。この歳小生は満56歳を迎えている。ちょうど今から20年前の話である。
多くの小鳥が僕だけには警戒心を持たないでいてくれる。