貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・番外編

2021年03月07日 | 流れ雲のブログ


















難病「魚鱗癬」を患う息子を産んだ若き母が世間の視線
(見られる差別)と戦いながら抱きしめる瞬間!





陽(よう:我が子)が産まれて1か月半を過ぎた頃、医師から
ベッドの移動を提案された。

陽のいる病院は、次々と、千グラム程の赤ちゃんが誕生する。
生きようと頑張る小さな命を、先生方が懸命に守っている。

そんななか、陽はNICU(新生児集中治療室)の1番奥で、
誰よりも場所をとっていた。

すでに体重は2500グラムあり、呼吸も落ち着いている。
常に感染症の恐れはあるが、無菌カプセルに守られ、
つきっきりで一分一秒を争うほどの状態ではもうない。
ということで移動の話がでた。

そのとき、先生は言葉に詰まらせながらこう言った。
「移動した先では、他のお母さんたちに見られることが
あります」「精一杯、見えないようにパーテーションなどで対応
はしていこうと思いますが、完璧に見えないようにすることは
不可能です」「それでもよろしいでしょうか」

「もし嫌なら、そう言って下さい。それならまた別の方法を
考えます」
急なことだったため、すぐに返事をできないでいると、
傍にいた看護師さんが私の腰に手を当てて、「お母さん、
無理しなくていいよ」「嫌なら、正直にそう言ってね」と優しく
声をかけてくれた。

見られる。

これまでにも何度か、処置をする際、パーテーションを開けて
行うことがあった。その時、面会にきていたお母さんたちが
陽の姿を見て、なんとも表現しづらい表情をしていた。
夫婦で面会にきていた人は、陽を見てヒソヒソと話していた。

正直に言えば、嫌だ。
そんな目で見られなくない。
これが本音だった。

だけど、言えるはずがない。
陽のすぐ傍(かたわら)では、まさに今、この時を生きたいと、
小さい体で踏ん張る赤ちゃんがいる。
その姿を見てきているから、言えるわけない。
言えるわけがない。

見られること。
それは陽にとっても、私にとっても、これからずっと続いて
いくこと。一生続くこと。
もういい加減、腹をくくらなければならない。

半歩でも踏み出さなければ、この先もきっと、踏み出すこと
ができない。「移動して下さい」

「私たちは大丈夫ですから」
そう自分に言い聞かせるかのように言った。





陽の場所が変わり、初めての面会。
陽の居場所を見つけることは容易だった。
そして確かに、みんなに見えてしまう場所。

授乳後に体重を測る台の、すぐ隣なのだから。
しかし機械や処置道具が多いため、その場所でないとスペース
が確保できないことも、 すぐに理解できた。

少しでも見えないようにと、パーテーションが置いてあり、
先生方の配慮(はいりょ)も伝わった。

陽、ここからがスタートだね。 病院を出たら、もっとたくさんの
人がいるよ。いろんな人で溢れているよ。 私たちが、守るよ。
そして、また面会が続き、 ・・・

そんなある日のこと、無菌カプセルからも出られるようになった。
更に、陽は白い布をまとっていた。 完全滅菌された、白い肌着、
布切れ1枚の偉力は凄まじいものだった。

「陽、すごいねー!」 「服着られたんだねー!!」
本当に本当に嬉しい。 鼓動が高鳴る。

服が着られたということは、抱っこができるから、
そう言われていたから、嬉しくてたまらない。

先生方の「抱っこしますか?」という問いに、
「・・・はい」と静かに答えた。

いざとなると不安が押し寄せ、全身ベタベタにワセリンを塗り、
肌全体にバリアをつくってあるから大丈夫だと言われても、
擦れて痛くないのかと心配になった。

着々と抱っこの準備は進み、何枚もエプロンを着て、
私の見えている肌の部分は、目元だけの状態。

「そこに座って待って下さい」そう言われ待つと、 バスタオル
で包まれた陽を、看護師さんが優しく抱っこして、近付いてきた。

胸が苦しい。 でもこの苦しさは、今までの辛く悲しい苦しさ
とは違う。 嬉しくて胸が詰まる、 幸せの苦しみ。

初めての抱っこに、緊張しつつ、私はそっと我が子に手を
伸ばした。 やっとやっと、我が子をこの胸に抱くことができる。
陽、おいで。・・・

・・・











私(鈴木秀子さん)は都内のある中学校で3年生を相手に
命の尊さについてお話をする機会がありました。

皆からみっちゃんと呼ばれていた中学一年生の女の子です。    
みっちゃんは中学に入って間もなく 白血病を発症し、入院と
退院を繰り返しながら、厳しい放射線治療に耐えていました。  

家族で励まし合って治療を続けていましたが、間もなく、  
みっちゃんの頭髪は薬の副作用ですべて抜け落ちてしまうのです。  

それでもみっちゃんは少し体調がよくなると、「学校に行きたい」  
と言いました。不憫に思った医師は家族にカツラの購入を勧め、  
みっちゃんはそれを着用して通学するようになりました。  

ところが、こういうことにすぐに敏感に気づく子供たちがいます。  
皆の面前で後ろからカツラを引っ張ったり、取り囲んで
「カツラ、カツラ」「つるつる頭」と囃(はや)し立てたり、  
ばい菌がうつると靴を隠したり、悲しいいじめが始まりました。

担任の先生が注意すればするほど、いじめはますます
エスカレート  していきました。

見かねた両親は「辛かったら、行かなくてもいいんだよ」  
と言うのですが、みっちゃんは挫けることなく毎日学校に  
足を運びました。  

2学期になると、クラスに一人の男の子が転校してきました。  
その男の子は義足で、歩こうとすると体が不自然に 曲がって
しまうのです。

この子もまた、いじめっ子たちの  絶好のターゲットでした。  
ある昼休み、いじめっ子のボスが、その歩き方を真似ながら、  
ニタニタと笑って男の子に近づいてきました。  

またいじめられる。誰もがそう思ったはずです。    
ところが、男の子はいじめっ子の右腕をグッと掴み、  
自分の左腕と組んで並んで立ったのです。  

そして「お弁当は食べないで、1時間、一緒に校庭を歩こう」。  
毅然とした態度でそのように言うと、いじめっ子を校庭に
連れ出し、腕を組んで歩き始めました。  

クラスの仲間は何事が起きたのかと しばらくは呆然と
していましたが、やがて一人、二人と外に出て、ゾロゾロと
後について  歩くようになったのです。  

男の子は不自由な足を一歩踏み出すごとに
「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にしていました。    
その声が、仲間から仲間へと伝わり、まるで大合唱のよう
になりました。

みっちゃんは黙って教室の窓からこの感動的な様子を
見ていました。  

次の日、みっちゃんはいつも学校まで車で送ってくれる両親と  
校門の前で別れた直後、なぜかすぐに車に駆け寄ってきました。  
そして着けていたカツラを車内に投げ入れると、そのまま学校に  
向かったのです。  

教室に入ると、皆の視線が一斉にみっちゃんに集まりました。  
しかし、ありのままの自分をさらす堂々とした姿勢に圧倒された  
のでしょうか、いじめっ子たちは後ずさりするばかりで、囃し
立てる者は誰もいませんでした。

「ありがとう。あなたの勇気のおかげで、自分を隠したり、
カムフラージュして生きることの惨めさが分かったよ」。    
みっちゃんは晴れやかな笑顔で何度も義足の男の子に御礼を  
言いました。  

しばらくすると、クラスに変化が見られ始めました。  
みっちゃんと足の不自由な男の子を中心として、静かで
穏やかな 人間関係が築かれていったのです。

みっちゃんに死が訪れたのは その年のクリスマス前でした。  
息を引き取る直前、みっちゃんは静かに話しました。

「私は2学期になってから、とても幸せだった。
あんなにたくさんの友だちに 恵まれ、あんなに楽しい時間を  
過ごせたことは本当の宝でした」  

講演後、私は中学生の心にこの話がどれだけ伝わっただろう
かと気になっていました。

すると一週間ほどして担任の先生から一本の電話がありました。
先生がおっしゃるには、それまでクラスで物も言わず、
学習意欲にも欠け、そのうちに病気になるのではと心配して
いた男子生徒が突然、先生を訪ねてきて、こう話をしたそうです。

「先生、この前の講演でぼくは勇気をもらいました。
僕のお母さんはいまガンで入院しています。皆からいじめ
られると思うと、そのことを誰にも話せなかった。けれども、

講演を通して堂々と生きるのが一番いい、ありのままの自分
でいいんだということがよく分かりました。その喜びを伝えたくて、
先生のところに来たんです」

これを聞いた先生は思わず生徒を抱きしめました。
「そうだったの。大変な問題を抱えて頑張っていたんだね。
気づかなくてごめんなさい。

これからは先生も友だちも、皆で応援すると約束するよ」
先生はクラスの仲間に男子生徒が抱える事情を話しました。
すると、この日から男子生徒の態度は明るくなり、クラスの
雰囲気は一変したといいます。 ・・・







「その位に素して行う」

私が、鎌倉の荒れた中学校へ赴任した時のことです。
皆からゴムまりをぶつけられるなどのいじめに遭い、しゅんと
している一年生の子がいました。

私は生徒指導担当として「先生が付いてるから頑張りなさい」
と励ましてきましたが、三年生になるとあまり姿を見掛け
なくなりました。

進路相談の行われた十二月、彼の母親が私の元へ来てこう
言いました。

「うちの子は休みが多く、点数が悪いからどこの高校も受け
られないと担任に言われました」

その子はとても育ちのいい子だったのですが、ある日級友
からお菓子を万引きしてこいと命じられました。
学校へ行くとまた何を言いつけられるか分からないから、
次第に足が遠のいてしまったというのです。

自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで行って事情を
話した上、「受験までに必要な勉強の基礎を、全部私が
責任を持って教えておきますから、受験させていただけ
ませんか」とお願いし、以来二人三脚で猛勉強の日々が
始まりました。

周囲に気づかれないよう暗くなった夜七時頃に彼の家へ
出掛け、英国数の基礎からみっちり三時間教えては十時半
の最終バスで駅へと向かう。

電車を降りるとタクシーは一時間待ちの行列です。
仕方なく夜道を四十五分かけて歩き、十二時過ぎに帰宅する
日々が続きました。

あんまりくたびれるのでバスの中でも眠り込み、「お客さん、
終点ですよ」の声で起こされるのが日課でした。

その甲斐あって彼は高校に無事合格し、卒業後は
イタリア料理店で働くようになりました。

その頃、我が家では主人が胃を全摘し、肝臓がんも併発
するなど、闘病生活で 体はひどく痩せ細っていました。
私は台所でいろいろなスープを作っては 主人に飲ませる
などしていましたが、私自身も疲労からくるたびたびの目眩
に悩まされていました。

教え子が訪ねてきてくれたのは、そんなある日のことです。
「ご主人様がご病気と聞いて チーフにスープの作り方を
習って持ってきました。

これ一袋で一食分の栄養がとれます」と、一抱えもある
スープを手渡してくれたのです。

私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、
「……これが本当の神様だわ」と呟いて、わんわん声を
出して泣いてしまいました。

すると、その子がまだ中一だった頃、「皆にいじめられても
頑張るのよ」と私が肩を叩いて励ましたのと同じように、
「先生、泣かないでください」と私の背中を叩いて慰めて
くれたのです。

その後も彼はスープがなくなる頃になると家を訪ねてくれ、
おかげで余命三か月と言われた主人が、三年も生き長らえる
ことができました。

私はこのスープを「究極のスープ」と呼んでいますが、
人間同士の世の中がそうしてお互いに尽くし合ってやって
いけたらどんなにかよいだろう、と思ったことでした。