「電車に乗るのが苦手になりました」 というのが、I雄さんの
訴えだった。56歳。中堅どころの会社の部長。かっぷくがよくて、
話にもよどみがない。
血圧と中性脂肪が高いほかは、これまで健康面の問題は
なかった。しかし最近、疲れやすくなったという。
朝方、出勤前にドキドキするようになった。通勤で電車に乗ろう
とすると、人混みが怖くて、電車を数本やり過ごしてしまう。
仕事で外出中も、気がつくと 動悸どうき がする。「このまま
死ぬんじゃないか」と怖くなり、循環器の内科に駆け込んだ。
しかし、検査の結果は「異常なし」。「ストレスじゃないですか?」
と言われた。近くのメンタルクリニックで受けた診断は、
「パニック症」、あるいは「広場恐怖症」。軽い精神安定剤を
処方された。
部下のミス、母のがん、妻との不仲…
I雄さんは、10歳年下の妻と二人暮らし。子どもはいない。
近くに両親が住んでいる。最近、母親が子宮がんで手術
を受けた。それが心配で、よくお見舞いに行くという。
仕事は順調だったが、1年前から始めたプロジェクトで問題
が起きた。部下のミスでシステム障害が起き、顧客の企業
に大きな迷惑をかけてしまったのだ。
I雄さんは、部下を連れて謝罪に出向き、システム修復のため
に課員を総動員し、連日、現場の作業にあたっていた。
「クライアントからの叱責や、部下からの不満。板挟みに
遭って、毎日が針のむしろです。
母親の具合も思わしくなく、毎日見舞いに行くと、今度は
女房が、『私とどっちが大事?』とむくれてしまう。最近は
口もきいてくれません。
まさか公私とも、こんなに大変なことになるとは思っていません
でした」 「まずは、仕事の処理がメインですよね。お母さんの
ことはお父さんに任せて、奥さんとはよく話し合いましょう」
と助言する。
「AGAの専門の先生を」
すると、面談の終了間際、「先生、AGAの専門の先生を、
どなたかご存じないでしょうか?」 と質問された。
「男性型脱毛症(AGA)?」 なるほど、彼の頭髪は、前頭部
から頭頂部にかけて、だいぶ薄毛になっている。
「調べておきますよ」と、お答えしておいた。
ある日突然、妻がキレて
次の面談では、だいぶ活気が戻っていた。仕事では、問題の
案件がようやく収束し、プロジェクトも解散した。
お母さんの病状は心配だが、治療も一段落。お見舞いも、
時々で十分になったとのこと。
「先生、一番大変だったのは、実は妻でした」
I雄さんは、大きく息を吐いて話し始めた。
もともと、彼は真面目一方の仕事人間。結婚当初から、
そのことは妻も知っていた。いや、そんな彼だからこそ結婚
したのだった。
しかし、子どもがいない、二人だけの生活。それなのに、
彼は仕事のことで頭がいっぱい。もともと母親とは仲がよくて、
マザコン状態だったが、母親の病気でさらにお互いベッタリの
状態になってしまった。
妻としては、当然不満がたまる一方だ。 ある日、I雄さんが
仕事から遅く帰り、母親との長電話が終わったところで、
ついに、妻がキレた。
「このハゲおやじ! 何、やってんだよっ!そんなに、ママが
恋しくてたまらないのっ?」 普段はおとなしい妻の怒声に、
I雄さんは、 呆然ぼうぜん とした。
妻は怒りにまかせて、「ハゲ!」、「クズ!」、「マザコン!」、
「デブ!」と繰り返す。 さすがの彼も、ひそかに気にしていた
容姿や、母親とのことを侮辱されて怒りが爆発。
「俺をバカにするなっ! ハゲ、ハゲって言うな!」 と大声で
どなり、テーブルを強い力でたたいた。
妻は一瞬、黙りこくった。さすがに、言い過ぎたと思った
ようだった。 どなり合い後、妻は歌いだし…
「で、家内はどうしたと思います?」 と、I雄さんは、そこで
私に尋ねてきた。 「どうですかねえ…」 と私は考え込んだ。
彼の奥さんは突然、歌い始めたのだった。
「♪~これもハゲ、あれもハゲ、たぶんハゲ、きっとハゲ…」
古い歌だが、さすがにI雄さんも知っていた。
松坂慶子さんが歌ってヒットした『愛の水中花』だ。
奥さんは即興で替え歌を作って歌った。しかも、一番を
フルコーラスで歌いきったのだ。
「♪~だって悲しいものよ 毛がないなんて…」 I雄さんは一瞬、
完全にかたまってしまったが、そのうち肩の力が抜けて、
急に笑いがこみ上げた。
彼は奥さんに向かってこう言わずにいられなかった。
「もう一回、歌って!」 奥さんは思い出しながらもう一度、
歌ってくれた。そして、二人でゲラゲラ笑った。
二人で腹を抱えて笑い合うなんて何年ぶりだろう?
I雄さんは、そう思わずにはいられなかった。
奥さんは話したという。「あなたは、ちっとも私のことを見て
くれなかった。私を心配させまいとするのはわかるけど、
仕事の悩みも打ち明けてくれない。
お母さんの病状も教えてくれない。みんな、自分だけで抱え
込もうとしている。私がどれほどさびしかったか、あなたに
わかる?
『私とお母さん、どっちが大事?』って尋ねても、あなたは
答えをはぐらかすばかり。無視されるより、怒られた方が
よっぽどまし。そう思って、さんざん怒らせてみた。
あなたが本気で怒ってくれて、ああ、ようやくこっちを向いて
くれたって思ったの」 そして、こう続けたという。
「でも、怒って真っ赤になったあなたの顔を見てたら、この前、
友だちとカラオケで歌った曲を思い出したのよ。
ハゲ、ハゲって言って悪かったわ。ストレスから来てるんじゃ
ないかって、ずっと思ってた。あなたのことが本当に心配。
どうか、自分だけで悩まないでちょうだい。
私たちは、二人だけの『夫婦』なんだからね…」
I雄さんは、そのことを話しながら、少し言葉をつまらせた。
「最近、週末は家内とよくカラオケに行くんです。懐かしい曲
をいっぱい歌うと、スッキリする。松崎しげるさんが歌っている
『ハゲのメモリー』って曲知ってます?
『愛のメモリー』の替え歌なんですが、二人で歌っては、
笑い転げています。仲直りの記念にと、思い出深い曲に
なりました」 そう語る彼の表情は、ずいぶん明るかった。
「あ、それからAGAの専門クリニックに行きました。
ちょっとだけど、毛が増えてきたんですよ!」
I雄さんは、少し照れたようにほほ笑んだ。 ・・・
「天真を発揮する」
夜明け前、薄暗い草むらの中でカメラを片手にじっと日の出
を待っている。正直、何が出てくるのか分からないし、何が
潜んでいるかもしれない。怖い……。
そんな私の恐れを溶かすように、静かに太陽が昇り始める。
少しずつ辺りが照らされ始め、そこには空や雲や太陽、大地
誰の手にも届かない、誰の力も及んでいない光景が広がって
いきます。
ファインダーを覗くと、いつの間にか大いなる存在に抱かれて
いるような安心感、幸福感に包まれる。そんな感覚を味わい
たくて、私はまた空地を撮りに行くのかもしれない。
乳がんと診断されたのは2004年です。その頃はカメラマン
として何かと忙しい日々を送っていました。26歳でデビューし、
森高千里さんや椎名林檎さん、福山雅治さん、平井堅さんなど、
第一線で活躍するミュージシャンの写真を撮る毎日。
しかし一方で、その少し前から大自然を被写体にした写真も
並行して撮り始めていたのです。
カメラマンという仕事は、たくさんの機材を担いだり、体力的
には結構きつい仕事です。まして私は女性だし、体も小さい。
疲れも溜まってきたし、ある日友人の勧めるタイ式マッサージ
に行ってみることにしました。
その日の夜、お風呂に入ると、片方の乳房にボコッと大きな
しこりができていることに気づきました。おそらく、マッサージ
によってリンパの流れがよくなり、腫瘍の部分で停滞を起こ
していたのでしょう。
検査に行ってみると、「擬陽性」と言われ、3ヶ月間様子を見て、
再検査することになりました。検査から半年過ぎた翌年の1月、
朝起きたら自分の胸の周りに黒い影のようなものを感じました。
「私、このままだと死ぬかも」急にそんな直感が走り、再検査
に行くと、今度ははっきりと「乳がん」と宣告されました。
しかも、ホルモン治療はもちろん、抗がん剤治療でも遅いと
いうところまで進行しているといいます。私は、左胸の除去
手術を受けました。
その時は女性でいることよりも、命を選択するよりほかあり
ませんでした。
しかし……、2年後の2006年4月18日、検査を受けに行くと、
両肺に転移していること、そして様々なデータから私の余命が
1年であることを告げられました。
この日は、ちょうど母の誕生日。母を思うと、涙が止まりません。
それでも無理やり拭って、平静を装い、実家に電話をかけて
検査結果を告げました。
自分自身の思考を振り返ると、すでに取り返しのつかない過去
の言動に対して「あの時、こうしたから……」という思い、いまだ
訪れていない未来に対して「これからどうなっていくんだろう」
という不安が大半を占めていました。
私に与えられた「いま」は、過去と未来によって使われていた
のです。いまやること、そしていまのこの時間に心と体を合わ
せて生きていれば、ものすごく充実した一日が過ごせることが
分かりました。
結局時間を早くしたり、短くしているのは自分だったんだな
と思います。いまこの時代にちゃんとピントを合わせて生きて
いれば、どこまでも濃密な時間が過ごせる。
時間の垣根はなくなって永遠を感じられるのです。そんな
“時間のトリック”が暴けた時、「一瞬の中に永遠がある」という
言葉の意味を理解しました。
いま、ここにピントを合わせて生きる。それは美しい空地、
人との出会い、そしてがんの痛みにさえも感謝することだと
思いました。
再発してからの1年半、間違いなく私は人生で一番「死」に
近づきました。そして死がすごく近くに来た時、生きることが
当たり前ではないと知って、生命と真剣に向き合いました。
いまここに生きていることがどれだけ奇跡的なことかということを、
・・・。 余命宣告から1年以上経ちましたが、その間、私が病気
になった意味は何だろうと、何十回、何百回と考えました。
もしも、私が死を身近に感じて命と向き合った時に感じ取った
ものを、私はこれからも伝え続けたい。それは写真になるのか、
言葉になるのか、あるいは笑顔になるのか、生きざまになる
のか分からないけど、私が自分の天真に目覚めて喜びと感謝
でいっぱいになったように、1人でも多くの人に気づいてほしい
ともいます。
8月下旬、体調が思わしくなく、検査に行ったところ、がんが
全身に転移していると告げられました。それから1ヶ月で
ほとんどのことを1人ではできなくなりました。
でも、ほとんどのことを誰かがしてくれる、助けてくれる、
支えてくれる……。私は本当に幸せ者です。ありがとう。
2008年1月17日、転移性乳癌のため尼崎市内の実家で亡く
なりました。
ここまで達観できる人は少ないですね。そして37歳の若さで
死に臨まなくてはならない境遇に関わらず、幸せであると言い、
感謝の想いを置いて逝ける。尊い姿だと思います。
死に限らず、あらゆる物事にも終わりがあります。
どんな苦しい状態であっても、その際は、必ず感謝の想い
を置いていく、そうありたいと強く思っております。 ・・・
三浦綾子さんの生き方に学ぶ幸福論
~心が受け入れない限り、絶望はない。
~ 三浦さんの人生は難病の連続だった。
24歳で突然高熱に倒れたのが 発端である。それがその後、
13年に及ぶ 肺結核との闘病の始まりだった。
当時、肺結核は死に至る病だった。入退院の繰り返しの中で、
三浦さんは自殺未遂も起こしている。
さらに悲惨が重なる。脊椎カリエスを併発。
ギプスベッドに固定され、動かせるのは首だけで 寝返りもできず、
来る日も 来る日も天井を目にするのみ。
排泄も一人ではできず、 すべての世話はお母さんがした。
そんな生活が4年も続いたとは 想像を超える。
そこに一人の男性が現れて 結婚を申し込む。光世さんである。
その日から薄皮を剥ぐように 快方に向かい、二人は結婚する。
綾子さん37歳、光世さん35歳だった。
そして綾子さんの書いた 小説『氷点』が新聞社の懸賞小説に当選、
作家への道が開ける。
しかし、その後も病魔は 襲い続けた。紫斑病。 喉頭がん。
三大痛い病と いわれる帯状疱疹が顔に斜めに発症、
鼻がつぶれる。
それが治ったと思ったら大腸がん。そしてパーキンソン病。
この二つを併発している時に、本誌は初めてお会いしたのだった。
次々と襲いかかる難病。
それだけで絶望し、人生を 呪っても不思議はない。
だが三浦さんは常に明るく、 ユーモアに溢れていた。
「これだけ難病に押しかけられたら、普通の人なら精神的に
参ってしまいますね」 という質問に 三浦さんは笑顔で答えた。
「神様が何か思し召しがあって 私を病気にしたんだと思って
います。神様にひいきにされていると 思うこともあります。
特別に目をかけられ、特別に任務を与えられたと……。
いい気なもんですねえ(笑)」
誰の人生にも絶望的な状況はある。だが、心が受け入れ
ない限り、絶望はない。
同様に、誰の人生にも 不幸な状況はある。
しかし、心が受け入れない限り、 不幸はない。
三浦さんの 生き方はそのことを 教えてくれているように思う。
その三浦さんが こんな言葉を残している。
「九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか 不満が
ない時でさえ、人間はまずその不満を 真っ先に口から出し、
文句をいいつづけるものなのだ。自分を顧みてつくづくそう思う。
「はい、わかりました」といつも。夫光世さんの語る綾子さんの
素顔 「綾子はいつも優しい顔をしていて、不機嫌な表情を
見せたことは一度もなかった」
「生涯たくさん病気をしたが、特に5年間寝たきりでベットから
起き上がれなかった ときも、綾子は、苦しみに会ってよかった、
と受け入れていた」と語り、病気の苦しみも受け入れながら
毎日夫に接していた素顔を懐かしく振り返った。・・・
なぜわたしたちは不満を 後まわしにし、感謝すべきことを
先に言わないのだろう」 ・・・ 三浦光世 「綾子の素顔と私」
死亡日: 2014年10月30日・・・