新型コロナウイルスがこの国でも広がり始めた2020年2月22日、
大阪府八尾市のアパートで、親子2人の遺体が発見された。
亡くなっていたのは、57歳の母親と、24歳の長男。
死後1ヶ月以上経過していた 母親の死因は急性薬物中毒で、
自殺とみられている。死後10日ほどだった
長男の死因は低体温症。母親の遺体の近くで1ヶ月近く
生きていたようだが、誰にも助けを求めることなく亡くなった。
部屋のガスと水道は止まり、冷蔵庫はほぼ空だった。
「八尾市母子餓死事件」。通常であれば大きく報じられた
だろうが、コロナ禍で、この事件はそれほど注目されなかった。
しかし、多くの人が事件のことを忘れていく中、生活保護問題
の専門家らによって「八尾市母子餓死事件調査団」が結成され、
これまで公開質問状を出すなど事実解明に力を入れてきた。
ここで調査団の資料や報道などから事件までの経緯を
振り返ろう。
親子が生活保護の利用を始めたのは07年。
当時は父親が生きており、親子3人での利用だった。が、
18年、 父親が死亡。
ここから母と長男、2人での生活が始まったようである。
しかし、事情は少々複雑だった。まず、この時点で生活保護
を利用していたのは母親のみ。
長男は生前、職を転々としていたようで、いずれも長続き
しなかったようである。
生活保護を利用すると、働ける人には「就労指導」がなされる。
若い長男にも当然指導があったのだろう。がんこ寿司、
電気工事、金属塗装、 医療事務、パチンコ店、木工所、
ファミリーマートなどで働いていたことがわかっている。が、
職については辞める、というのを繰り返していたらしい。
そうなると、役所にとっては少々面倒なことになる。
例えば月の稼ぎが最低生活費を上回れば生活保護は廃止
となるが、上回らない場合は廃止とはならない。
働いた分は収入認定され、 最低生活費に足りない分は引き
続き保護費が出る(それでもまったく働かないより働いた方が
得られる額は多くなる)。
そうして仕事を辞めて貯金もなければ、再び保護費が
全額出る。 働き始めては少し経つと辞め、また働き、
ということを繰り返していれば、そのような手続きは役所に
とって煩雑なものだっただろう。
ある時期から、不思議なことが起こり始める。
それは実態とは違うとしか思えない住民票の移動だ。
例えば18年11月、長男は木工所で働き始める。この際、
彼は祖母宅に転出したとされて「世帯員削除」され、
その後は母親が一人で生活保護を利用している。
「働き始めると長男の住民票が祖母宅に移る」ことは、
それ以前も行われていたようだが、肝心の祖母は
「孫と暮らしたことは一度もない」と述べている。
それだけではない。 祖母は「住民票だけ移すよう市から
言われたと聞いた」とも言っている。 このことから、長男は
母親と2人で暮らしていたと考えるのが自然だ。
実際、母の友人や長男の友人も「母と長男は常に一緒に
行動していた。長男が祖母宅に行ったとは考えられない」
と述べている。
親子は仲が良く、足の悪い母親にいつも長男が肩を貸し、
また長男がゴミ出しをし、毎朝のように親子がともに出かけ
ていく姿を近所の人に目撃されている。
ちなみに母親は変形性膝関節症の手術を受け、介護度は
「要支援2」。働ける状態ではなかった。 そんな親子の生活
がいよいよ逼迫していくのは19年からだ。
1月、長男は勤務先を休みがちとなり、月末には辞めてしまう。
3月、料金滞納によって部屋の水道が止められてしまう。
翌日、停水は解除されたが、5月にも再び水道が止まり、
また同月、家賃滞納で家主から部屋を追い出されてしまう。
その後、親子は公園で寝泊まりするようになるのだが、
この頃、親子は友人に助けを求め、泊めてもらうなども
している。その時、母親は「駅前ホテルで飛び降り自殺を
試みた」ことを友人に語っている。
なぜ、水道が止まり、家賃滞納で追い出されるまでに困窮
していたのか。それは2人が「母親一人分の生活保護費」
で暮らしていたことが原因と思われる。
ここまで困窮していても、 長男は生活保護を利用できていな
かったのだ。 6月には、洋服が汚れた親子が、突然八尾
市役所を訪ねてきた。なんとか助けてほしいとの思いで役所
を頼ったのだろう。
しかし、そこで役所から親子に突きつけられたのは
「一括で20万円を返せ」という要求だった。 前年暮れ、
母親には役所から転居費20万円が支給されていた。
父親が亡くなったことで転居指導されその費用として支給
されたお金だ。が、それを使い込んでしまったのだ。
もちろん、保護費の使い込みは責められるべきことだ。が、
路上生活をしていた親子が一括で20万円など返せるわけ
がない。母親は分割払いを求め、月2万円ずつ返還していく
ことが決まった。
そうして7月5日、親子は遺体発見現場となるアパートに
移り住む。やっと路上生活を脱したわけだが、この時、
長男の生活保護は再開されず、母親の生活保護だけが
再開される。
またしても「一人分の生活保護費で2人が暮らす日々」
が始まったわけである。
困窮が極まった長男は再び保護を利用しているのだが、
仕事を始めると世帯員削除され保護から外されている。
このような経緯を経て、再び始まった「一人分の保護費で
2人が暮らす」生活。その上、そこから毎月2万円が返済に
消えるのだ。
八尾市の基準額では、一人分の生活扶助費は7万6310円
(家賃は別)。 ここから2万円引かれると残りは5万6310円。
光熱費や携帯代、2人分の食費、生活費をまかなうには
到底無理な額である。
19年7月には、長男のラインアカウントが消滅。スマホを
維持できなくなったからだろうか。母と長男は友人宅に食事
やお風呂の提供を求めてたびたび宿泊していたそうだが、
秋頃を最後に連絡も途絶えてしまう。
11月にはまたしても水道が止まる。そうして12月末、1月分
の保護費が支給される日、毎月、役所の窓口に生活保護費
を受け取りに来る親子は姿を見せなかった。
この日、窓口で保護費を受け取る147人のうち、来なかった
のは26人。しかし、最後まで連絡が取れなかったのは、この
親子だけだった。
年明けの1月8日、役所の職員が部屋を訪れるが応答はなし。
1月15日、料金滞納でまた水道が止まる。おそらくこの頃、
母親は処方されていた薬を大量服薬して死亡。
2月はじめ、生活保護の支給日に親子はまた現れず、役所の
職員が自宅訪問をするが応答なし。2月18日には「失踪」した
ものとして生活保護の廃止が決定される。
親子の遺体が発見されたのは、その4日後、2月22日だった。
母親は布団で、長男は隣の介護用ベッドであおむけに
倒れていた。
解剖の結果、母親は死後1ヶ月以上、 長男は死後10日ほど。
長男の死因は低体温症で、母親は急性薬物中毒。部屋には
薬の空袋が大量に残されていたという。
2月16日午後3時、八尾市役所の会議室で、八尾市母子餓死
事件調査団と八尾市との話し合いが始まった。
調査団メンバーを迎えるのは、八尾市の生活福祉課長と、
課長補佐。
最初に概要を説明し、問題点に切り込んでいく。
ひとつめは、「長男がいるのに母親の保護費しか支給して
いなかったこと」。 こういう状況だったことは認めるか、との
問いにしばらく沈黙した課長は、 「細かいことは申し上げられ
ませんけど、報道されてる通り単身世帯ということで保護を
適用しておりました」と回答。
2人が餓死するという大事件である。しかも、これまで
「生活保護を受けられずに餓死」「生活保護をむりやり辞退
させられての餓死」ではなく、 生活保護を利用していたにも
かかわらず、起きた餓死事件である。
2人の死を真摯に受け取め、再発防止に取り組もうという
姿勢には思えないのだ。
次に調査団が「月2万円もの保護費を返還させていたこと」。
そうなると2人の生活費はわずか5万6000円ほど。 しかも
この「2万円」という返還額には大きな問題がある。
生活保護法では、返済額が「最低限度の生活を維持できる
範囲」でなければならないと定められているからだ。厚労省
はその目安額について、単身の場合で月5000円としている
しかし、今回はその4倍の額を返済することになっていたのだ。
しかも、実際には2人で暮らしていたのに。生活が破綻する
ことは容易に想像できただろう。
次に問うたのは、「2ヶ月にわたり保護費を取りに来なかった
のに安否確認を怠ったこと」。 生活保護を利用する人が
保護費を取りにこないことは一大事である。唯一の命綱を
手放すようなことである。
「何かあったのでは」と身構えるのが普通だろう。しかし、
職員は2度自宅を訪問しているが、連絡票を投函しただけで、
鍵のかかっていない部屋には立ち入らず帰っている
(二度目は室内をのぞいているが異変には気づかず)。
この「部屋の鍵が開いていた」事実に、もしかしたら親子は、
「誰かが来てくれるかもしれない」という一縷の望みを抱いて
いたのではないだろうか。
1月の訪問で職員が部屋に立ち入っていたら、2人はおそらく
まだ生きていたのだ。少なくとも、長男は確実に生きていた。
この件に関して、八尾市では「安否確認マニュアル」を作成中
だそうで、そろそろ完成するところだという。
次に調査団が指摘したのは、八尾市では生活保護を廃止する
人の中に「辞退」での廃止が異常に多いこと。
07年、北九州市で生活保護を「辞退」させられた男性が
「おにぎり食べたい」とメモを残して餓死する凄惨な事件が
起きたが、この事件を受け、 厚労省は「辞退」廃止は慎重
にするようにという旨の通知を出している。
本当に本人の真摯な意思があるか、保護を廃止して生活が
できるかどうかをしっかり確認しなくてはならないというものだ。
最後、「第三者による検証委員会の設置」を求めると、課長は
妙に堂々と言った。 「それは考えてないです。内部で検証して
いきますんで」 そうして、一時間にわたる話し合いは終わった。
菅総理は、国会にて「最終的には生活保護がある」と述べた。
しかし、その最後のセーフティネットが、利用していても餓死
してしまうようなものであれば、それは公助が機能している
とはとても言えない。
胸が痛むのは、長男の24歳という若さだ。 足の悪い
母親をいつも助けていた優しい長男なら、 彼に合った支援
が得られていたら、いくらだってなんだってできただろう。
少なくとも、困窮の果てに母親の遺体の側で若くして命を
落とすような最期は迎えずに済んだだろう。 ……。
・・・・
母の日に合わせてポストカードを選び、最新の息子の写真を
印刷して送る。毎年恒例になったそれを、今年も行う。
私と母はとても仲の良い親子に見えるだろうか。けれど、
私たちは仲の良い親子では無かった。
私の目に映る母
私の目から映る母は、世間一般で謳われる優しさや慈しみの
象徴のような人ではなく、私が何をするにも否定し失敗を嗤い、
家の中に留まらず外に向けても大げさに吹聴して回る人だった。
それに対し私が怒ると徹底的に叱られたので、随分と理不尽
だと子供心に思っていた。
しかし、衣食住に不自由はしなかったし、それ以外は普通の
親子と何ら変わりは無かった。だから、傷ついたし悲しんだり
しながらも、こんな扱いを受けるのは出来損ないの自身の
せいで些細なことなのだと受け入れ、どこにでもある当たり
前の事なのだと信じるようになった。
本当に信じていた。一片の疑いも無かった。
この手でわが子を抱くまでは。
生まれたての、頼りないという言葉では言い表せないぐらい
ふにゃふにゃとした身体を抱き、初めておっぱいをあげた時、
涙が出た。
どうしてこの子に、あんなひどい言葉を投げかけることが
できるだろうか。冷たい仕打ちができるだろうか。
私はこの子に自身を蔑んで生きるような真似をしてほしくない。
胸を張って生きてほしい。そう、切に願った。
理想の母親
里帰り中であるにも関わらず、母との距離は広まる一方
だった。産褥期は何もしてはいけない、と部屋の中に閉じ
込められ、歩き回るのすら厳しく監視されるのは閉口した。
勿論、それは母なりの気遣いだったのだと、今は思う。
けれど、全に母に対して猜疑心が目覚めていた私は、衣食住
を依存しながらも、『私は決してこんな母親にはならない』
と心の中で誓い、反面教師にしようと毎日敵意を滾らせ
ていた。
そんな訳で、里帰りを終えてからの生活は、まさしく孤軍奮闘
という言葉がぴったりの日々になった。
夫は土日も仕事で、越してきたばかりで知人もいない。病院
すら何処にあるか分からない。
保健所から配布される資料を噛り付くように見、ネットでの
調べ物は欠かさない。勿論、子供の様子には一部の隙も
無いぐらい神経を尖らせた。
決して母のようにはならない。なりたくない。
せめて私はこの子にとって優しさと慈しみに満ちた良い母親
であろう。そう思っていた。
この頃の私の思い描いた『良い母親』とは何だったのだろうか。
振り返って見れば、それは、かつてテレビで、本で、映画で
見たそれぞれの良いところをかき集めたモザイク画のような
ものだったと思う。
歪で、しかしとても美しい理想的な母親。まるで、聖堂の
モザイク画のように、1つ1つ光り輝く壮大で美しい彼女には、
かつて私が母に求めていた物が、全て詰まっていた。
しかし、モザイク画の美しい母親像は、孤立と劣等感を私に
与えた。何せ彼女は理想の塊なので、疲れを知らず、
社交的で、常に笑顔と慈しみがあった。
本来の私は人見知り出不精ですぐに怠けてしまう。全く
以て程遠い。追い求めても追い求めても、決して埋まる
ことのない彼女と私との距離に、私は疲弊し、子供に向ける
感情すら分からなくなるほどすり減った。
ただ機械的に子供と接し、過ごす日々に、私は絶望した。
(私も、母のようになるかもしれない)
ぼんやりと、息子の頬に生えた産毛が柔らかな日差しを
受けて光るのを、暗い気持ちで眺める。穴の開いた船に乗り、
ゆっくりゆっくりと、海底に沈んでいるような日々だった。
母のようにはならないと決めてやってきた事なのに、母の
ようになる未来が私に待っている。
理想と現実とがせめぎあい、ギリギリと追い込まれる。
このまま行っていたら、私と息子はどうなっていただろう。
想像するだけでおぞましい。
だが、ほんの些細なきっかけで、私は美しい彼女を追うのを
止めることができたのだった。
子はかすがい
きっかけは何のことは無い。単に夫の多忙な仕事が終わり、
1人きりで子育てする時間が減少したからだ。
疲れている。限界だ。そんな自覚すら無いまま邁進していた
のが、『疲れているんだから休もう』と考える余裕ができたのだ。
私だけが子供を守り育てるような錯覚をして、少しでも
失敗したら、この子は私のように常に親の愛に対して猜疑心
を持ち、しかしながら愛を乞い求める寂しさを抱くように
してしまう。
そんな思いさせたくないから、少しの失敗を許す事ができ
なかった。母に育てられた私ではダメだと心の底から信じ、
理想の彼女に縋ったのも、その為だった。
けれど夫と二人で育児をしてみれば、ああ。私は間違ったって
いいんだ。夫と間違いながらでも愛情深く育てて行けば、
この子は私のようにはならないと、肩の力を抜くことができた。
気が付けば、気軽に世間話をするママ友ができ、よく行く
店の店員には声を掛けられるようになった。少し前の、
理想の母親像を追い求めて孤独な日々を送っていた
私はいなくなっていた。
『子はかすがい』という諺を知っているだろか。
主に、夫婦間の愛情がなくとも子供への愛情で夫婦の縁を
保ってくれる、という意味で使われる言葉だが、私の場合は
子供は夫だけでなく、ママ友や地域とも繋ぐ、『かすがい』
そのものだった。・・・