私が息子ににしてもいいこと
先生からの説明も終わり、私たちは陽(息子)の待つ場所
へ戻った。
着いてすぐ、「お母さん、オムツ替えてみますか?」と言う
看護師さん。
私はすぐに返事もできず、ただ陽と看護師さんを、交互に
見ていた。
今までにも、仕事がらオムツ替えをしたことは何度もある。
けれど、なぜか急に、とてつもない緊張が襲った。
ちゃんと、できるかな。不安からなのか、緊張からなのか、
顔が熱くなる。オムツを替えるだけで、こんなに緊張する
なんて、ダメな母ちゃんだね。
そして哺乳瓶で母乳をあげたり、全身に薬を塗ったり、
抱っこできたことを皮切りに、少しずつ私が陽にしても
いいことが増えてきた。
今まではずっと傍にいても、何もしてあげられなかったけれど、
やっと母親らしいことができる。
面会終了時間も間近に迫った頃、陽が眠っていたため、
私も静かにしていると誰も居ないと思われ、半灯にされて
しまうこともあった。
「陽ちゃんのお母さん、まだ居るんちゃうん?」と一人の看護師
さんが気付いて下さり、
「すみませ〜ん。まだいま〜す」と私が情けない声をあげると、
部屋中、看護師さんと私の笑い声が響く。
そんな中でもグッスリ眠る陽と、赤ちゃんたち、ゆっくり眠ってね、
と病院を後にする日が続いた。
そして陽が産まれて、2か月半。
看護師さんから、あるものを家から持ってくるように言われた。
帰りの車の中、一人、嬉しくて涙が溢れた。
涙で前が見えなくなり、田舎の広いコンビニの駐車場に停め、
気が済むまで嬉しさから溢れる涙を流した。
そして次の日、私は紙袋を大事に抱えて、病院に向かう。
紙袋の中に、「陽の服」を詰め込んで。
いつ退院できるか分からなくて、まだ新しい服は1枚もなく、
紙袋の中身は全て、甥っ子2人のおさがり。
私は兄、兄、私の3人兄弟の末っ子。
長男とは歳が離れていることもあり、あまり話をしたことがなく、
いつしか「おはよう」という簡単な4文字の挨拶ですら、
なかなか交わせない関係となっていた。
そして私には父親はいない。
正確には、私が18歳になるまではいた。
けれど父親だと思ったことは、物心がついた頃からは一度
もなく、「さようなら」をした最後の日、久しぶりに目を見て
話をした。
「いつまでも可愛い娘や思とるから」そう言う、あの人を私は
無言で見送った。心の中で「さようなら」をした。
周囲には「やっとおらんくなったわ〜」なんて言っていたけれど、
本当は泣いたんだ。
さびしくて、悲しくて。でも、それはあの人がいなくなったから、
淋しいのではない。ただ、ずっと「父さん」と呼んで頼れる
存在がほしかった。
「父さん、あのね」「父さん、聞いて」
それでも、そんな想いを上回るほどの愛情を、私は母親から
貰っていた。母はいつでも私の味方をしてくれる。
理解してくれる。
きっと、あの人に関しては、私よりも母の方が辛い想い
をしている。けれど母はいつも笑顔だった。
母の優しい強さに、私はいつも救われていた。
陽が産まれて「家族」の形が少し変化した。
それは、長男との関係。「お前は大丈夫なん?」
「陽は?」と心配して、訪ねて来てくれるようになった。
まだまだ言葉数は少ないが「これ」といって紙袋いっぱいに
「陽へ」と服をくれた。
私が喜んで貰うと、次は段ボールいっぱいの服をくれた。
まだ陽には大きすぎる服も入っていた。「ありがとう」
そして陽が産まれて、初めて迎えたゴールデンウィークには、
長兄家族、次兄家族、私たち家族、母。みんなで集まって
ご飯を食べ、1つの部屋でゲームをして盛り上がった。
こんなこと、今までなかった。
皆で楽しめるようにと、用意してくれた夫のおかげだね。
陽が産まれてきてくれたおかげだね。
私は何よりも、兄弟仲良く、家族揃って笑って過ごす様子を、
嬉しそうに見守る母の姿に、涙が出そうになった。
私がこの景色を望んでいたよりもっと、母はこの景色を強く
望んでいただろう。母さん、遅くなってごめんね。
そしてこれも、陽が起こしてくれた“奇跡”だね。
・・・
「夜回り先生」と呼ばれ、青少年の非行や薬物汚染拡大防止
に活動を続ける水谷修氏の原点となる、ある少年との逸話。
マサフミという少年
よく薬物の専門家たちは「真面目な子ほど、薬物を真面目
に使って死んでいく。
心に傷がある者ほど、その傷を埋めるために必死に使って
死んでいく」と言います。
マサフミもそんな少年でした。マサフミがいなかったら僕は
薬物と闘っていなかっただろうし、ある意味では幸せだった
かもしれない。
彼は高校生の入学生にもシンナーを吸ってくるほどの依存症
で、僕が夜回りで見つけた時も、夜の公園で空き缶を使って
シンナーを吸っていました。
なぜか最初から気が合って、その日、空が明るくなるまで
語り合っていました。
彼は幼い頃に暴力団抗争で父を亡くし、以来母親と2人で
6畳1間、風呂なし、トイレ共同の木造アパートに住み、
貧しいながら幸せに暮らしていました。
母親思いでね、小学校の時は学級委員をやるほど真面目
で優秀だったそうです。
ところが、5年生の時、母親が過労で寝たきりになり、生活
が一変してしまう。
電話、電気、ガスは止められ、食べ物にも困るようになった。
マサフミはコンビニを1軒1軒回り、「僕の家は貧しいから、
捨てるお弁当をください」と頼んで歩いたそうです。
ほとんどが「余ったお弁当は業者に戻さなければならない」
と断る中、遠くの町にある1軒だけが、「弁当を戻すのは
午前2時だよ。そんなに遅くに来られるかい?」と
言ってくれた。
その日から午前零時に家を出て、捨てる弁当を貰いに
行きました。しかし、親子2人、当然弁当1つでは身が
持ちません。
マサフミは給食のおばさんに「公園の犬に餌をやるから」
と嘘をついて、余ったパンと牛乳をもらうことにしました。
ところが、子どもたちは敏感です。
彼が給食の余りをもらっていることはすぐに同級生に
知れ渡り、それから猛烈ないじめが始まった。
一番辛かったのは、帰り道に公園に連れていかれ、
せっかくもらったパンを地面にばらまかせ、ことごとく踏み
つけられた時だったと言っていました。
そんな状況を見かねて助けてくれたのが、同じアパート
に住む暴走族でした。暴力で同級生たちを抑え込み、
マサフミは6年生からその仲間となった。
母親は「息子が暴走族になったのは自分が病に倒れ、
貧しい暮らしをさせたせいだ」と自分を責め、自分を責める
母親を見るとマサフミはますます辛くなった。
そこから逃れるためにシンナーに手を染めていったのです。
公園で会った次の日、学校へ来たマサフミは僕の顔を見る
なりこう言いました。
「先生、俺シンナーやめるよ。昨日からいろいろやめ方を
考えたんだけど、いい方法を思いついた。先生と一緒に
暮らしたら吸えないよな」
「そうだな。いいよ、今日から家に来い」そうして1週間、
10日間、僕の家で暮らすと、「もうシンナーやめれれた。
母ちゃんが心配だから家に帰るよ」と言って帰っていった。
しかし、2、3日後には、夜中に泣きながら電話をして、
「俺、また使っちゃったよ。体が勝手に動いて、先輩の
家からもらってきた……。
先生、俺のこと嫌いになる?」
「いいよ、きょうから家に来い」
そうして1週間、10日間、僕の家で暮らすと、
「もうシンナーやめられた。母ちゃんが心配だから
家に帰るよ」と言って帰っていく。
しかし2、3日後には、夜中に泣きながら電話をして、
「俺、また使っちゃったよ。体が勝手に動いて、先輩の
家からもらってきた……。
先生、俺のこと嫌いになる?」
「いいよ、しょうがないよ。また明日から家に来い。
焼き肉してやるよ」そしてまた僕の家に来る。
その繰り返しでした。
6月も下旬を過ぎた頃、授業を終えて教室に戻ると、
マサフミが新聞の切り抜きを持って待っていました。
「俺、やっぱり先生じゃシンナーやめられない。この新聞に
載っている『神奈川県立精神医療センターせりがや病院』
ってところは、シンナーや覚せい剤をやっている10代の
子を治してくれるんだって。連れて行ってよ」
僕はカチンときました。こんなにしてやっているのに、俺じゃ
ダメだって言うのか。そう思うと、腹が立って仕方がなかった。
だから、その日僕は冷たかった。
「分かった。連れていってやるよ。
でも今週は忙しいから来週だ」
そう答えると、マサフミは
「きょう先生の家に行っていい?行っていい?」
とまとわりついてきました。
でも僕は、その日は一緒にいたくなかった。だから嘘を
言いました。「ダメだ。きょうは神奈川県警と山下公園
の公開パトロールをするから、おまえを連れていけない」
そう言って、夜10時頃、彼を騙して追い返したんです。
マサフミはエレベーターホールへ向かって歩きながら、
何度も何度も僕を振り返って、最後に一言叫びました。
「水谷先生ーっ、冷てぇぞ!!」それが最後の言葉でした。
僕はあのまま帰せば雅文が「さよならシンナー」をやることは
分かっていました。友達に「俺、今度こそシンナーやめる。
月曜日に病院に行くんだ」と言うと、「じゃあ最後に“さよなら
シンナー”やるべ」となることは予測できていたんです。
それでも僕は騙して彼を帰した……。 僕と別れて4時間後、
6月25日の午前2時、マサフミはシンナーを吸って、フラフラ
と道路に飛び出し、ダンプカーに轢かれて即死しました。
シンナーの幻覚で、ライトが何かキラキラしたきれいなもの
にでも見えたんでしょう。両手でつかむように飛び込んで
いったといいます。
マサフミは僕が殺した最初の子です。僕はもう教員なんて
やる資格はないと思いましたね。
学校を辞める決意をして身辺整理をしていましたが、その時、
あの日マサフミが持ってきた新聞の切り抜きが出てきた。
気持ちの整理をつける意味でも、彼を連れていく予定だった。
「せりがや病院」の院長を訪ねました。そこで院長に言われた
言葉を、僕は一生忘れることができません。
「水谷さん、彼を殺したのは君だよ。シンナーや覚せい剤は
簡単にやめることはできない。それは“依存症”という病気
だからだ。それをあなたは愛の力で治そうとした。
高熱で苦しむ生徒を、愛情込めて抱きしめたら熱が下がり
ますか?『おまえの根性がたるんでいるからだ』と叱って
下がりますか?
病気を治すのは、私たち医者の仕事です。無理をしましたね」
返す言葉がなかったです。そんな僕にさらに院長は続けました。
「あなたは正直な人だから学校を辞めようとしているのかも
しれない。辞めないでください。いま薬物が若者の間で急速
に広がっているのに、それに取り組む教員が1人もいない。
われわれと一緒に戦いましょう。
院長に説得され、水谷先生は教員の立場から薬物問題と
取り組むことを決意した。
大人たちは頭を使い過ぎますよ。子どもたちが待って
いるのは、考えてもらうことじゃない。そばにいてくれる
ことです。
それを頭で考えて、言葉でこね繰り回すから、むしろ言葉で
子どもたちを傷つけて追い込んでいる。
いま、世の中、ハリネズミだらけだ。教員も生徒も、親も子も、
社会全体がそうです。愛し合って認め合いたいのに、
針を出し合う。
(水谷さんが子どもたちに一番伝えたいことは何でしょうか。)
死ぬな、ということ。そして夜の世界には来てはいけない、
ということです。
同時にそれは、もうこれ以上、子どもたちを夜の闇へ沈め
ないでくれ、という昼の世界の大人たちへの叫びでもあります。
子どもたちは花の種です。
でもその花は決して夜の世界では咲かない。
温かい太陽の下でしか花を開かせることができないのです。
昼の世界が優しくして、自己を認めてくれて、受け入れて
くれるならば、どの子が夜の世界へ行きたいか。
どの子がリストカットをするか。
本当はどの子も夜は温かい家で、優しさに包まれて、
安心して眠りたいのです。それを用意するのがわれわれ
大人の仕事です。
よく生きてこれたなと思うほどの貧乏でした。
6人きょうだいの4番目で、「この貧乏な百姓だけは嫌だ。
何としても働いて大学に行きたい」とずっと思っていました。
それで高校を卒業する時、担任の先生に「先生のような
国語の先生になりたいです」と言うたら、即座に「なれん。
おまえのところは貧乏だから大学には行けん」と。
昭和30年の話です。
その先生は続けて「それでもどうしても教師になりたかったら
短大へ行け。いま女性の体育教師が不足しとるから、その
資格がとれるかもしれん。そして愛媛に戻ってきて、わしと
一緒に教員をやろうや」と言ってくださいました。
でもね、私は学校の授業で一番苦手なのが体育だったんです。
「先生、こらえて」と言いましたら、「そんな贅沢を言いよったら、
教員になれんぞ。百姓して貧乏に耐えるのか」と言われて、
東京の日本女子体育短期大学(現在の日本女子体育大学)
を受験しました。
幸いに合格できましたけど。 学費は、私の思いを知った
船員の兄が入学金を用立ててくれたんです。
授業料は近くの映画撮影所でエキストラのアルバイト
をしたり、寮の掃除や炊事の手伝いをして納めたのですが、
とても払い切れずに、後に東京で体育の教師をした1年半
でようやく完納しました。
体育は苦手だったので、短大に入った1年目は「荷物を
まとめて帰りなさい。あなたはここにおっても卒業できん」
と何回も言われました。
だけど、不可能は可能になるもんなんですよ。
「負けてなるか」と思って毎朝4時に起きて6時までの2時間、
誰もいない体育館でバレーボールやバスケットボール、
跳び箱などの練習をしました。
そうしたら6ヶ月後には皆から褒められる学生になったんです
(笑)。 その時、心の支えになっていたのは短大進学を勧めて
くださった高校の担任の先生の言葉です。
先生はおっしゃいました。 「わしは30年間教師をしてきた
けれども、得意な教科の教員になると、苦手な生徒の心が
見えん。苦手な教科の教員になると、苦手な者の気持ちが
分かる。
そうするとクラスの生徒は、皆おまえの授業が好きになる
じゃろう。騙されたと思ってそうしてみい」と。 それで、
卒業後は体育の教師になりました。
学かんの立ち上げのきっかけの一つとなったのは
私が38歳の時に、小学2年生の長男を白血病で
失ったことです。
白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。
「痛い、痛い」と叫ぶと脊髄から髄液を抜く。
そうすると痛みが少し和らぐ。 それを繰り返すわけですよ。
ある時、長男はあまりの痛さに耐えかねて、そんなこと
言う子じゃないんですが「痛いが(痛いぞ)、ボロ医者」
と大声で叫んだんです。
主治医の先生は30代のとても立派な方で「ごめんよ、
ボク、ごめんよ」と手を震わせておられた。
長男はその2ヶ月半後に亡くなりました。
長男が小学2年生で亡くなりましたので、 4人兄弟姉妹
の末っ子の二男が3年生になった時、私たちは「ああ
この子は大丈夫じゃ。お兄ちゃんのように死んだりは
しない」と喜んでいたんです。
ところが、その二男もその年の夏にプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。 長男が亡くなって8年後の
同じ7月でした。
彼女には四人の子供がいたが、長男を小学2年生
の時に白血病で亡くした。末っ子の次男は健康で元気。
この子は大丈夫だと喜んでいた。
ところが、この次男が小学3年生になった時、夏の
プールの時間に、プールの底に沈んで亡くなって
しまった。
近くの高校に勤めていた塩見さんに連絡が入り、
大急ぎで駆けつけたが、次男はもう冷たくなっていた。
子供たちが寄ってきて
「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」
と口々に言う。
「どうしたんや」と聞くと、
10分の休み時間に誰かに背中を押されて
コンクリートに頭を打ちつけ、
沈んでしまったと話してくれた。
「押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も
友達も絶対に許さんぞ」という怒りが込み上げてきた。
新聞社やテレビ局が来て、大騒ぎになった時、同じく
高校の教師だったご主人が大泣きしながら塩見さんを
裏の倉庫に連れていって言った、という。
「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。
犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、過ち
とはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を
背負って生きてかないかん。
わしら二人が我慢しようや。うちの子が心臓麻痺で
死んだことにして、校医の先生に心臓麻痺で死んだと
いう診断書さえ書いてもろうたら、学校も友達も許して
やれるやないか。そうしようや。そうしようや」
私はビックリしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。
だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、仕方が
ないと思いました。それで許したんです。友達も学校も
……。
こんな時、男性は強いと思いましたね。
でも、いま考えたらお父さんの言う通りでした。争うて
お金をもろうたり、裁判して勝ってそれが何になる……。
許してあげてよかったなぁと思うのは、命日の7月2日
に墓前に花がない年が 一年もないんです。
30年も前の話なのに、毎年友達が花を手向けて
タワシで墓を磨いてくれている。
もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえ
てもこんな優しい人達を育てることはできなかった。
そういう人が生活する町にはできなかった。
心からそう思います・・・