AV(アダルトビデオ)は女優のリアルなセックスが売り。
見て楽しむ手軽な風俗として日常に定着させた最大の功労者
のひとりが村西氏だった。
1982年、代々木忠氏による「ドキュメント・ザ・オナニー」
シリーズをきっかけにAVブームが起こった。
家庭用ビデオデッキの普及時期とも重なって自室で手軽に
楽しめる時代背景も大きかったが、当初は「ボカシ」を入れ、
あくまでも「疑似」といわれていた。
そこに待ったをかけるようにAV界に革命をもたらしたのが
村西氏だった。85年、村西氏が自ら監督、男優、さらに手に
カメラを持って撮影するカメラマンの1人3役で登場。
国立大学在籍中のK嬢のデビュー作「SMぽいの好き」は、
高学歴の才女が本番までしているという触れ込みに世間は
仰天。村西は一躍、AV界の寵児となり監督自身にもスポット
ライトが当たった。
村西氏とは果たしてどんな人物なのか。何度となく取材した。
最初は四谷のビルの一室だった事務所が、仕事の勢いその
ままに代々木上原の一軒家が事務所兼撮影に使われた。
雑然とした部屋でよく話を聞いた。
1の質問で10の答えが返ってくる。
それも冗舌でユーモアもある。
話に吸い込まれていくようだった。
「ナイスですね~」「ゴージャズでございます」など数々の名語録
が生まれ、監督効果で人気AV女優も数々輩出した。
元「たのきんトリオ」の野村義男の結婚相手も村西氏が育てた
人だった。
AV女優は「出演した理由」などさまざまな角度から記事にする
方法はあったが、引退後の人生も興味深いものだった。
90年、人気AV女優だったM・Rが「某外国の要人の夜の
接待に指名され数百万円の報酬を得た」という衝撃的な話が
男性誌に載った。
実名での告白は信憑性はあったが、後追いするメディア
もなく真相は闇の中。
実はこの話、以前から村西氏の雑談からヒントらしき話を聞き、
密かに調べていた。
M・Rの名前までは出なかったが、「複数のAV嬢が外国の
要人の夜の接待をしている」といった内容だった。
実際、「したことある」という子も数人、取材した。
日付、ホテル名など具体的な内容から「事実だろう」とは
思ったが、狙いは彼女たちの話よりも、要人たちがどういう
ルートでAV嬢と接触したか? だった。
彼女たちに聞くと「AV会社の人」と大半は仕事の関係者。
そこから、さらにたどる。怪しげな会社もあれば、知っている
会社の名前も出てくる。まるで迷路に入ったかのように複雑。
なかなか本丸にたどり着けない。「振り込め詐欺」のかけ子を
捕まえても本ボシにたどり着けないのとよく似ている。
最終的に、大手商社の一社員ではないか?というところまで
たどり着けたが、社員を特定できず行き詰まり、取材は
打ち切った。ボツにはなったが、思い出に残る取材の
ひとつである。
私が学習塾講師になって間もない頃、S君という中学三年生
の生徒が入塾してきました。 無口で少し変わった子でした。
授業の時にノートを出さない。数学の問題はテキストの余白で
計算する。 だから計算ミスばかりしているのです。
たまりかねた私は、ある時、彼を呼び出して言いました。
「ノートはどうした」しかし、S君は黙ったままうつむいています。
次の日は必ずノートを持ってくるように約束させましたが、
それでも彼はノートを持ってきませんでした。
私はカチンときて思わず怒鳴りつけました。
「反抗する気やな。よし分かった。先生がノートをやるわ」
私は五百枚ほどのコピー用紙の束を 机にボンと投げ
出しました。
するとS君は「ありがとうございます」と御礼を言うのです。
夏になると、周囲の生徒から S君に対する苦情が寄せ
られるようになりました。彼がいつも着ているヨレヨレのTシャツ
と ジーパンが臭うというのです。
この時も私は彼を呼んで毎日着替えるよう言いましたが、
それからも服装は相変わらずでした。
私は保護者面談の時、S君の母親にこのことを話しておかなく
てはと思いました。
生活態度を改めるよう注意を促してほしいと訴え掛ける私に、
母親は呟くように話を始めました。
「あの子は小学校の頃から、この塾に通ってK学院に進学
するのがずっと夢だったんです。でも先生、大変申し訳ない
のですが、うちにはお金がありません……」
S君が早くに父親を亡くし、母親が女手一つで 彼を育て
上げてきたことを知ったのはこの時でした。
塾に通いたいというS君をなだめ続け、生活を切り詰めながら
なんとか中学三年の中途で入塾させることができたというのです。
私はしばらく頭を上げることができませんでした。
S君に申し訳なかったという悔恨の念がこみ上げてきました。
そして超難関のK学院合格に向けて 一緒に頑張ることを
自分に誓ったのです。
K学院を目指して早くから通塾していた生徒たちの中で
S君の成績はビリに近い状態でしたが、この塾で勉強する
のが夢だったというだけあって勉強ぶりには目を見張る
ものがありました。
一冊しかない参考書がボロボロになるまで勉強し、
私もまた、他の生徒に気を使いながら、こっそり彼を呼んで
夜遅くまで個別指導にあたりました。
すると約二か月で七百人中ベストテンに入るまでになった
のです。まさに信じがたい伸びでした。
S君はそれからも猛勉強を続け、最高水準の問題をこなせる
ようになりました。
K学院の入試も終わり、合格発表の日を迎えました。
私は居ても立ってもいられず発表時刻より早くK学院に行き、
合格者名が張り出されるのを待ちました。
真っ先にS君の名前を見つけた時の喜び。
それはとても言葉で言い尽くせるものではありません。
「S君に早く祝福の言葉を掛けてあげたい」。
そう思った私は彼が来るのを待ちました。
しかし一時間、二時間たち、夕方になっても姿を見せません。
母親と一緒にやって来たのは夜七時を過ぎてからでした。
母親の仕事が終わるのをずっと待っていたようでした。
気がつくとS君と母親は掲示板の前で泣いていました。
「よかったな。これでおまえはK学院の生徒じゃないか」
我がことのように喜んで声を掛けた私に彼は明るく
言いました。
「先生。僕はK学院には行きません。公立のT高校で
頑張ります」 私は一瞬「えっ」と思いました。
T高校も高レベルとはいえ、K学院を辞退することなど
過去にないことだったからです。
しかし、その疑問はすぐに氷解しました。
S君は最初から経済的にK学院に行けないと分かって
いました。
それでも猛勉強をして、見事合格してみせたのです。
なんという健気な志だろう。私はそれ以上何も言わず、
S君の成長を祈っていくことにしました。
この日以来、S君と会うことはありませんでしたが、
三年後、嬉しい出来事がありました。
東大・京大の合格者名が週刊誌に掲載され、
その中にS君の名があったのです。
「S君、やったなぁ」。私は思わず心の中で叫んでいました。
・・・
この間こういう体験をしました!!。
渋谷から横浜に行く東横線で、目の前の座席に、五十代
半ばぐらいの、上から下までブランド品で身を固めた
ご婦人が座ってたんです。
きれいな人なんですが、どこかしら、なんとも言えない陰気な
雰囲気が漂っているんですね。
私はどうしてこういう人と向かい合わせに座ることに
なっちゃったんだろうと思いながら、頭の中で、この人はきっと
家で喧嘩してきたに違いないとか、そんなことを考え
始めたんです。
そこで気分を変えようと本を読み始めて、しばらくして
目を上げると、その同じ人が、さっきとは全然違う感じで
、和やかにニコニコしながらにいい雰囲気をあふれさせて
いるんです。
え? これがさっきと 同じ人かと思って。
そうしたらその人の視線が ずーっと遠くにいってるんです。
何がこの人をこんなに変えたんだろうと思って、視線をずっと
追っていったら、赤ちゃんがその人に手を振っていたんです。
私はそれを見たときに、ああ、これからの世の中はいろんな
変化が起こるけれども、大事なのは、一人ひとりが、人に接した
ときに、
あるいはいろんな出来事のなかで、その人の人間の深い
ところにある優しさ、人間らしさ、そういうものを引き出す
ような生き方をすることではないかと、しみじみ感じたんですね。
私は目の前に座っていて、いやな人と目を合わせないよう
にしていたから、私からもいやなものが伝わっていったと
思うんです。
でも赤ちゃんは本当に無心にその人にある人間的な優しさ
を引き出したんです。 ね・・・
「今年も椿が咲きましたね」元気だった頃の母は、初春を
迎えるたびに、そう呟やいたものでした。
ある時、私が「椿の花は、ポロッと落ちるから好きじゃない…」
と言うと、「咲いた花は必らず散るものよ。たまには散りゆく
風情も味わってみなさい」と、言いながら、こんな話をして
くれました。
昔のことなので、間違っているかもしれませんが…。
千利休の孫に宗旦という人がいました。
ある日、その宗旦と親交のあった京都正安寺の和尚さまが、
寺の庭に咲いた椿の花の一枝を宗旦に届けるために、
小僧さんに持たせたのです。
椿の花は落ち易いことを知っていた小僧さんは、気をつけて
いたのですが、案の定、途中で落としてしまいました。
小僧さんは、ひどく落胆し、落ちた椿の花を手のひらに乗せて、
自分の粗相を宗旦に詫びるのですが、宗旦はただ黙って笑み
を浮かべながら、この小僧さんを自分の茶室に招き入れ
たのでした。
宗旦は、茶室に置いてあった花入れを片づけて、利休から
譲り受けた遺品の竹筒を取り出し、小僧さんが手にしていた
花のない椿の枝をそこへ投げ入れました。
そして、その枝の真下に落ちた花をそっと置いて、薄茶を
一服点じ、静かに小僧さんの労をねぎらったというのです。
相手を責めず、おおらかな心で落ちた花の風情を味わい
ながら、二人で茶を服したという話でした。
役割りを終えた花にも値打ちを見出して、その一瞬を楽しむ。
これこそが“人生のお点前”であることを、母は私に教えた
かったのでしょうか。
落ちたものは落ちたもので、貧乏は貧乏なままで、
ないものはないままで…と、常に“あるがままをよし”とした
素朴な母でした。
その母ももうすぐ89才を迎え、今、冬が来たことも、
好きな椿が咲いたことも(痴呆で)わからず、軒下にかかった
ままの風鈴が風に揺れるのを、ぼんやり眺めるだけの
毎日ですが、
これもまた、人生を味わい尽くしたあとに誰もが迎える
“老いの風情”と言えるかもしれません。
だとすれば、この風情を静かに受け入れ、風に揺らめく
季節はずれの風鈴を母と一緒に眺めながら、長閑な
ひとときを心ゆくまで味わいたいと思います。
母との静かな暮らしに、心を癒されて…
・・・