貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・一考編

2021年03月14日 | 流れ雲のブログ




















2018年9月に94歳の父をみとりました。老衰でした。

夜中の1時すぎ、寝かしつける直前でした。父の呼吸が急に
速く大きくなり、5分ほど続いた後、今度はゆっくりした呼吸に
変わり、しばらく続きました。

私は「これが最期だなあ」と直感しました。  
そして、父の肩を揺らし、背中に手を入れて抱きかかえ、
姉と私を育ててくれたことに対し、言葉にして感謝を伝えました。

大粒の涙が止まりませんでした。
鼓動が止まったか、呼吸が止まったか、その瞬間に合掌
をしました。  

11年6月、脚立から転落して左大腿(だいたい)骨を折り、
1カ月半入院。要介護5となり、事業者の支援が入りました。

当初3年は週2~3日、デイサービスへ車いすで出掛け、
それを拒否してからはほぼ毎日、在宅で介護ヘルパーに
食事支援、

オムツ交換、清拭(せいしき)など多方面で介助、介護して
いただきました。  

春と秋、たまに私が父を抱えて車いすに乗せ、近くの公園
へ散歩できたことが、父にとっても私にとっても、今となって
は幸せなひとときでした。

野の草花を持ち帰り、庭に植え付けたことも遠くない記憶
に残っています。  

父は週2回の訪問入浴を、本当に楽しみにしていました。
乳白色の入浴剤を入れ、かき混ぜ、幸せそうに「ああ、
ええあんばいやあ」とつぶやいていました。

風呂に入れてくれる若い3人のスタッフさんは、父だけ
でなく私たち家族にも若いパワーを注いでくれました。  

年月を増すごとに強くなった思いは、父にとって、いかに
日常を苦痛なく快適に過ごさせてあげられるかでした。

かゆい所はタオルでこする、全身をマッサージで刺激する、
散歩に出掛けるなど、本人の気力を伸ばすことだけを
考えていました。

介護する側、される側も百人百色であり、どれだけ寄り
添ってあげられるかが大切だと思いました。  

自分自身は「後に後悔しないようにしよう」という強い思い
だけでした。よく言われる「完璧に」とか「100パーセント
の介護を」といった思いが強すぎるのも良くないですし、
介護に答えや正解はないのかもしれません。

私には精神障害を患う姉がいました。ヘビースモーカー
で肺の病気もあり、生活の全てで介助が必要でした。  

昨年8月、父の初盆の墓参りに行く直前の出来事でした。
お昼すぎに私が帰宅すると、姉が1階の父のベッドに
横たわっているのを見つけました。

舌が奥に入り、心臓は動いていましたが、呼吸と脈は
ありません。救急隊員が来るまで指示通り、
心臓マッサージをしていました。  

救急隊が到着し、4~5人で処置を施してもらった後、
搬送されましたが、約1時間後に帰らぬ人となりました。
肺血栓症でした。脱水症状も影響したと思われます。  

姉は5年ほど前から移動支援を受け、買い物や外食、
入浴に出掛けることができました。

直近の1年間は、在宅で入浴や食事を支援されていました。  
本当にまだ心の整理がついていません。今は仏壇にある
父の遺影の横に亡き姉の遺影とお骨を並べています。

亡き父には姉を守ってやれなかったことへの謝りと悔い、
亡き姉には日々の健康面での認識の甘さと、もっともっと
優しくしてあげたらよかったという思いで、涙しかありません。
(神戸市須磨区、60代男性)

Author: (中島摩子、紺野大樹、田中宏樹)











「笑う」

あなたは笑っていた 本当は可笑しくも何ともなかったのに
まわりが笑うと あなたもいっしょに笑っていた
本当は面白くも何ともなかったのに
話の内容なんて 全く分からなかったのに

あなたは笑っていた 本当は泣きたかったのに
初めて紙おむつをはめた日 あなたは声を出して笑っていた
本当は恥ずかしくてしょうがなかったのに
紙おむつをはめている
自分が情けなくてしょうがなかったのに

あなたは笑われていた
「あの馬鹿が歩きよる」と通りすがりの人に指さされて
あなたは意味も分からず大声で笑っていた
「馬鹿から生まれたんだもの おれは小馬鹿だな」
馬鹿と小馬鹿で大声を出して笑った

あなたは笑っている
写真の中で父に肩を抱かれて とても幸せそうに
あなたは父といっしょに笑っている
愛してくれる人が私にはいるんですよ
認知症もいいものですよと
父の隣で父を見上げながら笑っている


​​​​​​​


その頃は、超多忙なときで心に余裕がなかったのもあって、
その人の笑顔は冬枯れの中に咲いた一輪の花だった。
私は、その人の笑顔に安堵感を感じていた。

殺伐とした人間関係の中で、その笑顔にあたたかみを感じ、
受け入れられているような気がしていた。  

人は笑顔で何を伝えているのだろう? 

気がついたことがある。どんなに面白い話でも、苦虫を
噛みつぶしたような顔をして話したら誰も笑わないのだ。

ところが、どんなに面白くない話でも、笑顔で話をすると、
だれかれなしに笑顔になり、笑い声さえ聞こえてくるのだ。

笑顔の元を心の中にたどれば、それは喜びであり、
楽しみであり、幸せであると思う。

それから人と出会うとき、笑顔を意識するようになった。  
アクビがうつるのは、アクビに内在している情緒である
くつろぎ、退屈、ねむ気、くたびれを、アクビを見ている人の
視覚に訴えて誘起させているのだそうだ。

つまり笑顔も同じことになる。笑顔を作ることによって「喜び」
「楽しみ」「幸せ」などの情動が誘起されることがある
ということだ。

父はいつも母に温かい「まなざし」を送っていた。
満面の笑顔でいつも母を見つめていた。
どんなにつらいときも、どんなに悲しいときも、父は母に
接するときは笑顔を絶やさなかった。

そして、訳のわかない母の話にもただただうなずいていた。
その笑顔を見て、母はいつもにこやかだった。  

大井玄さんの著書に、「痴呆状態にある人と「心を通わす」
とは、記憶、見当識などの認知能力の低下によって彼らに
生ずる「不安を中核とした情動」を推察し、それをなだめ、
心おだやかな、できれば楽しい気分を共有することです。」
と書いている。

認知症が進む中、母にも不安は沢山あっただろう。
しかし、それらを父の笑顔が溶かし、一つ一つ喜びに
置き換えていったのだろうと思う。

言葉で理解し合う二人ではなく、言葉や意味を超えた
「喜び」や「楽しみ」という情動を父と母は共有していたのだ。
父と一緒にいる写真の中の母はいつも笑っている。  

父の跡をついで母の世話をするようになった頃は、
意味の分からない母の話にいつも苛ついた。
私の話すことを理解できない母を情けなく思った。
そして、いつも「おれの母さんだろう!しっかりしろ」と言った。
何度も何度も言った。

母は悲しい顔をしていた。母が幼い私の手をとり、
片言で話すこんがらがった私の話を、一つ一つ大切に
聞いてくれたことを思い出した。

理解したり、理解させることではない、そのままの母を
受け入れることだと思った。

母が、幼い私を優しく受け入れてくれたように、私もまた
老いた母を無条件に受け入れようと思った。
父の笑顔のまなざしで母を見つめ続けようと思った。  

名も忘れた「笑顔の人」。私はあなたの口元でその笑顔を
憶えている。「口」+「笑」で、「咲」という漢字ができあがって
いるのだそうだ。

花が咲くことを、「花が笑う」というのもうなずける。
あなたは私に人と人とは喜びでつながっていることを
教えてくれた。

あなたの花は、今でも私の心に咲いている。
その花を母にも分けてあげたいと思う。 ・・・

・・・