貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・チャンネルニュース

2021年03月30日 | 流れ雲のブログ



















年間5万人近くの高校生が留学するまでになった日本。
若い層の留学希望者が増える一方で、見過ごされている
問題もある。



都内在住、私立中高一貫校に通う凜さんは、アメリカへの
留学を目指し英語の勉強に力を入れてきた。

幼少期をアメリカで過ごしていたが、幼すぎたため、あまり
記憶に残っていない。高校生となり、アメリカを存分に肌で
感じてみたいと思ったのが留学を目指すきっかけだった。

「私にとってのアメリカはキラキラした憧れの国でした。
英語の力をもっとつけたいという気持ちも強かった。
残念ながら、それが留学してみてすべて崩れ去りました」

乱闘、マリファナ当たり前という環境

凜さんが交換留学生として派遣されたのは、アメリカの
とある町。米軍基地内に暮らす一家がホストファミリーとなり
受け入れてくれた。

ホストマザーは白人系の物静かな人だった。家には5歳、
3歳の黒人系の養子の子どもと、2歳の実子が暮らしていた。
ホストファーザーは軍人で海外勤務中のため、ホストマザーが
ワンオペで家のことを回していた。

やんちゃ盛りの男児3人は凜さんにとってはとてもかわいい存在。
「よーし、ここでホストファミリーと交流して、学校で友達を作って
……」と希望を抱いてのスタートだった。

学校はホストファミリーの家から通学圏内にある公立校だった。
緊張しながら迎えた登校初日、そこには目を疑う光景が
広がっていた。 「パジャマで登校する生徒も見かけました。
みんな服装がすごくだらしない感じでした」

数日通ううちに、その異様さが次々と浮き彫りになった。
授業中は雑談だらけ、日本でいう学級崩壊が起きていた。
それだけではない。 「数学の授業中にマリファナをやって
いる人がいました。

はじめは何の匂いかわかりませんでしたけど、だんだん
何かわかりはじめて、トイレもそんな匂いがするし、学校の
至る所で薬物が使われていました。

校内での暴力事件も頻繁でした。驚いたのは、学校で起きた
喧嘩や乱闘だけを上げる専用のSNSアカウントがあったこと。
誰が上げているのかわからないのですが、3日に1度は学生
同士がつかみ合う動画がアップされるんです。

とてもまともに授業を受けられるような環境ではありません
でした」 実際にアップされた動画を見せてもらったが、狭い
通学バスの中で乱闘と呼べるほどの殴り合いが起こっていた。

だが、これだけひどい状況ならば彼女はなぜ斡旋団体に
報告し、学校を変えてもらうことをしなかったのか。

話を進めると、そこには、学生心理につけこんだ巧みな仕組み
が見えてきた。

凜さんが留学するにあたって頼ったのは、海外に本部を置く
留学斡旋団体だった。世界各国の留学生に海外で学ぶ機会
を創出してきた団体だ。

受け入れ先となるホストファミリーもボランティアで留学生を
受け入れてくれ、公立校の場合、学校の費用もかからない。

凜さんは『ボランティア』という言葉から、留学生との交流を
楽しみにしている温かい家庭や学校が迎え入れてくれるの
だろうと想像していたと話す。

日本にも事務所があり、HPを見ると、こちらでは日本への
留学の斡旋もしていることが見て取れる。

日本のホストファミリー募集のページも見受けられ、
心温まる交流の様子が体験談として書かれていた。
そして、HPには日本から海外へと留学するには一定の
語学力が必要なことなどが書かれていた。

つまり、応募しても全員が行けるわけではないということだ。
費用は1年間で100万円ちょっと。年間の留学にしては少し
安めの設定だが、それでもそれなりの金額だ。

凜さんは留学が許可されたという連絡をもらったときは
とてもうれしかったと話す。”選ばれし者になった”そんな感覚
だったのかもしれない。

親子合宿で繰り返し聞かされた「NGルール」

留学前には同じ団体からその年に出発することが決まった
子たちを集めての2泊3日の研修が都内で行われた。
全国から50人ほどが集まっていたという。

この宿泊研修中に示されたのが、現地でトラブルが発生した
場合の対処法だった。この宿泊行事は親子での参加が義務
付けられていたのだが、子どもたちの自立を促すために、
「日本の家族との連絡は極力避けること」と説明された。

些細なことで「帰りたい」と言い出し、親に泣きをいれて帰国
することになっては、留学に出す意味がないと、真摯に説明
をしているように聞こえた。

続いて出てきたのが「NGルール」。斡旋団体の関係者は
「学校もホストファミリーも善意で皆さんを受け入れてくれている」
と強調。まずは、現地の学校に慣れること、多少の違和感は
「文化だと思って受け入れましょう」と、繰り返し繰り返し
話されたという。

そのうえで、何か相談したいこと、困ったことがある場合は
次の順番で連絡するように伝えられたのだった。

① ホストファミリー ② 現地にいる団体のコーディネーター
③ 自分の家族 留学生がホストファミリーや学校とトラブル
を起こした場合や連絡の順番を守らずに行動したときには
「NGカード」をもらうことになり、3枚たまると強制帰国になる
との説明がなされた。

「高校2年生での1年間の留学は大学受験を見据えてきている
子がほとんどです。スクールイヤー1年分(実質10カ月)の
留学ができたかできなかったかで、進路は変わってきます。

なんとしても成し遂げたい、そんな思いでいましたから、
強制帰国は避けたいというのはどの学生も同じだったと
思います」

センター試験の廃止や大学の入学定員厳格化など、何かと
話題の多い最近の大学入試。凜さんはまさに新入試制度の
1期生となる学年だった。

有名大学の中には1年(1学年分)以上の海外留学経験者を
対象に行う入試もある。ここへの出願を考えて留学に挑む
生徒も多くいるのだ。

「ルールを破って強制帰国になったら、留学経験者枠での大学
への出願もできなくなります。親に大金を出してもらっているのに、
それが全部無駄になるかと思うと、なんとしてでも耐えねばと
強く思いました」

マリファナも暴力沙汰も文化のうち。

そう自分に言い聞かせたが、学校の荒れ具合を文化として
受け入れて、そこに馴染む努力をすることに何の意味が
あるのか。疑問を拭い去ることはできなかった。

「貧困世帯が多くある、生のアメリカの姿を知ることができた
のはよかった」と前向きに捉えようとするものの、それだけで
は済まされない事態に発展していく。

ハロウィンに友達から渡された手作りのケーキ。中には
マリファナが混ぜ込まれていた。「匂いもするのですぐに
わかります。食べるとちょっとふわふわした気持ちになるし、
これはおかしいと思いました」。身の危険を感じたという。

家に帰ると「まるでメイド」 体を休めるはずのホスト宅の
居心地も、日に日に悪くなっていた。団体の説明からは、
しっかりとした食事をホストファミリーが用意してくれるもの
と思っていたが、実際に出されるのは冷凍食品ばかり。

お腹が空きすぎて倒れそうになったこともあると言うが、
家族も同じものを食べていたため、文句は言えない。しかし、
凜さんには食事以外にも休まらない理由があった。

「だんだんと家事などの手伝いが増えて……はじめはちょっと
子どもたちの面倒を見るくらいだったのが、洗濯も頼まれる
ようになり、下の子2人を毎日公園に連れていくこともいつの
間にか私の役割になっていました。

扱われ方もまるでメイドみたいな感じでした」
薬物と暴力の蔓延する学校、メイドのような生活……
絶えきれなくなりルールどおりにホストファミリーに相談したが、
何のアクションも起こされなかった。

それどころか、ホストマザーとの関係は険悪になった。
「ホストマザーの気分を害したらいけないと思い、『学校が
どうしても合わないから学校を変わりたい。だから、ホスト
チェンジをしたいんだけど』という言い方にしたのですが、
その日から態度が急変。

ホストファミリーから斡旋団体に苦情が入れば、それはそれで
例のNGカードになってしまう。 追い詰められた凜さんは、
出発前の合宿で連絡先を交換していた日本人の生徒2人に
連絡をとってみた。すると、その子たちも苦しい思いをしている
ことが判明した。

「彼女たちはオプション料金を払って私立の学校に入ったようで、
学校に対する不満はなさそうでしたが、ホストファミリーには
困っていました。1人は携帯を取り上げられ、誰とも連絡が
とれない状態にされたため、学校の先生に相談、
警察が動いてホストチェンジしてもらっていました。

もう1人は家がゴミ屋敷のように汚く、食事も満足にもらえて
いないそうでした。実際に部屋の写真も見ましたが、確かに
ひどかったですし、食事としてなんとドライタイプのドッグフード
が出されていたんです。

作るのが面倒だからコレを食べろと言われたそうです。
その子は、学校で仲良くなった友達に助けを求め、自力で
ホストファミリーを探し、ホストチェンジしていました」

ついに行動を起こした凜さん

こうした情報を基に、凜さんも行動を起こすことを決めた。
同じ米軍基地内に暮らし、学校の部活で仲良くなった子に相談、
この家庭に受け入れてもらうことができたのだ。

メイド扱いを受けるホストからは解放されたが、学校は
変われずじまい。「このままでは頭がおかしくなる」と、12月、
当初の予定を2カ月繰り上げて帰国する選択をした。

「思い描いてきた留学経験を生かした入試は、受験資格に
足りず、もう受けられません。でも、それでも帰国してよかった
と思っています」

帰国後は席を残していた中高一貫校に戻り、高校3年生となり
元の日常生活を送っている。

彼女が、留学で得たものはあったのか。 「ヒアリング力は
ついた気もしますが、現地校では単語を読めない生徒も多く、
リーディングやライティングはほとんど向上した気がしません。

ホストファミリーも学校も、団体の審査を通った所と聞いて
いたので安心していましたが、まったく安心できるところでは
ありませんでした」

彼女の周りだけでもこれだけのことが起きている。としたら、
なぜこれまで表に出てきていないのか。

凜さんはこう分析する。「高校生の留学は夏休みなどの短期や
1年くらいが主流です。帰国後は大学受験で忙しくなりますから、
留学団体に文句を言っている余裕はなく、泣き寝入りになる。
それが、こうした状況を表に出にくくしている原因ではないで
しょうか」

残期間の費用が返還されるケースもあるが…

文部科学省のHPには、こうしたトラブルを避けるため、
情報提供を行う団体の紹介がある。 その1つ、J-CROSS
(一般社団法人 留学サービス審査機構)では、留学事業者
が守るべきルールを作成。個々の事業者がそのルールを
満たすかどうかの認証を第三者の立場で行っており、
基準を満たした事業者をリスト化している。

今回の団体はというと、有名な団体ながら、このリストには
入っていなかった。

若者の海外留学が増える今、とくに未成年子どもたちの安全を
守るためにも、希望ある未来を打ち砕かないためにも、
留学斡旋団体に対してのより厳格な審査が必要になって
きているのではないか。 ……。

・・・・














孤立も劣等感もなくなった子育ては、本当に楽しく、私に
自信を付けさせた。

母の場合は近くに父の親である祖父母がいたし、町内会が
盛んな地域だったので孤立とは無縁な生活。ワンオペ育児
とはかけ離れている。

それに引き換え、私は誰の手助けも無いけれど立派に
育児をしている。あの人より、私の方が上だ。母より、私は
上なんだ。そんな、醜い自尊心は私の中でむくむくと
育っていった。

今迄みたいな言われっぱなしじゃなく、あなたは間違っている
と正々堂々と子供を持つ親の立場で意見できる。もう私は
子供じゃないから。あなたより子育てができる親なんだから。

お盆に子供と夫と共に帰省することを決めたのも、その
歪みきった醜い自尊心が私を巣喰ったからだ。だから、
だから、私の作ったお盆用のお供えを、母がいつものように
大げさに、夫の前でなんて下手なんだと嘲笑した時、
我慢ができなかった。

「私を馬鹿にするのは止めて」
反射的に立ち上がり、そう叫んでいた。

冗談

それは、子供のころからずっと言っていてねじ伏せられてきた
言葉だった。いつしか言う事すら諦めていた言葉だった。
でも、もう負けない。負けるものか。

身体は芯まで冷えた。鼓動が早く脈打った。
奥歯をかみしめて、目の前の母を見据えた。
けれどそのくせ、足が、体が、勝手に震えていた。

(言ってしまった)もう後戻りはできない。

叫んだ私に対し、母は言葉の限りを尽くして私を詰るだろう。
卑下するだろう。嘲笑するだろう。私の夫と、子供の前で。
熱い唾を飲み込み、母の言動を身を固くして待った。

けれど母は。母は、苦笑しただけだった。
夫に「娘が変なことを言ってごめんなさいね」と寛大な態度を
取った上で、諭すように言うだけだった。

「冗談に決まってるのでしょ。どうして今更真面目に受け
取るの?」本当に不思議そうなその顔は、自分の言葉で
娘が傷ついてるなんて、まるで考えたことがない。
そう、書いてあったのだ。

同じ母の立場になって

何事も無かったかのように背を向け、キッチンへと消える母。
その背中を見て、唐突に理解できた。どうして、娘を貶める
言葉を投げかける事ができたのか。どうして、冷たい仕打ち
ができたのか。

この人は、私を傷つけたくてやってたんじゃない。自分が
どんな事を言っても、どんな事をやっても、私が傷つきは
しないと心の底から信じているんだ。

喜んで貰えるか考えて、なけなしの小遣いで買った
ネックレスや、初めて学校で習ったミシンで悪戦苦闘して
贈ったミトンを翌日にはゴミ箱に捨てていても、それは
母の中で全て『冗談』で終わる事だったんだ。

(どうしてだろう)

どうして、母は私の気持ちに胡坐をかき続け、慈しみや
優しさを与えようとはしなかったのか。

母は理不尽な人ではあるが、決して愚かな人ではない。
寧ろ、理知的でとても頭の良い人だ。そして、母の親―つまり、
私の祖父母もそのような態度の人たちでは無い。

それならば、母がこうなってしまったのは、親になってから
ではないか。

(この人、どんな風に子育てしてたんだ?)
やっとぶつけた感情を流されたことに、不思議と怒りも悲しみ
も沸かなかった。

私が、強靭で完璧で絶対的な存在の母を、『同じ母親』という
目線で考えたのはこの時初めてだった。

この時まで私は、母の内面なんて、省みようとなんてしたこと
が無かった。一度たりとも。

母がこの地に嫁いできたのは、22歳の時だった。

都会の、そこそこ裕福な家庭で何一つ不自由なく暮らしていた
母にとって、駅前にコンビニも無く、スーパーにさえ車が必要な
環境に驚きが隠せなかったという。

またそんな地であるから、昔ながらの繋がりがとても重要視
されていた。餅つき、相撲大会、夏祭りと、1年で行う行事は
数知れない。

それらの行事に欠かさず参加していた私達だったが、周りが
方言だらけの中で1人標準語の母は、子供の目から見ても、
常に浮いた存在だった。

父は子育てに関心の無い人だったし、近距離に住む祖父母も
優しかったが、平然と母の悪口を言い、いつまでも『嫁』として
母を異分子扱いしていた。

いつまでもいつまでも、周りと溶け込めないで、異分子で
あり続けた母の姿を、私はずっと側で見ていた。

「ここに越してきてからは、お盆の支度が楽だわ。以前は
1日中天ぷらを揚げていたんだもの」食卓に座る夫相手に
話すその声に、更に記憶は蘇る。

そうだ。祖父母の死をきっかけに、私たち家族は隣町に
引っ越してきた。もう従兄弟たちで集まる事も無くなった。

毎年、年末年始とお盆は必ず、父の姉―つまり、伯母たち
は自身の夫と子供全員を連れて祖父母の家に泊まりに来た。
その、全員分の食事の支度をするのは母の役割だった。

「終わる頃には疲れ果てて、何にもする気も起きなかったわ」
他の人が笑い、歌い、騒ぎ、好きなだけ飲み食いする中、
朝から晩まで台所に立っていた。たった一人で。

けれど、台所の片隅でぐったりと座り込んでいる母を気に
掛ける人なんて誰もいなかった。祖父も、祖母も、叔母も、
従兄も、夫である父も、そして子供である私でさえも。
誰一人、母の事を労わる人なんて、いなかったのだ。

アイギスの盾

母の場合は近くに父の親である祖父母がいる、近隣の
目がある。私みたいなワンオペ育児じゃない。そう思ってた。

けれど、それらは少しの失敗も許さず監視する目であって、
救いの手を差し伸べる存在じゃなかった。醜く自尊心を肥え
太らせた私には想像つかぬほど過酷な環境で、母は子育て
をしていた。

たった1人で正解を求めて張り詰め続ける孤独な日々は、
母をすり減らすには十分だった。そうして、穴の開いた船に
乗ったまま、深い深い海底へと沈んでいった。優しさや慈しみ
を手放して、たった1人で行ってしまったのだ。

私にとって母はいつも、強靭で、絶対で、孤立した人だった。
何事にも傷つかぬアイギスの盾のような存在だった。
そう思っていた。でも違う。そうならざる負えなかったんだ。

それは、環境のせいか。時代背景のせいか。それとも、
孤立した母を何処とも繋ぐ事ができない、かすがいには
なれなかった、愚かで不出来な娘のせいか。

「大変だったんですねぇ」夫が、暢気な声で母の世間話に
応じれば、母は肩をすくめて笑い飛ばす。「ええ。でも、
もう全部、終わったことだから」

傷つき、泣いた事など、一片もありはしないという風に、
強靭に笑った。

彼女の横顔

これが、私の憶測では無いというのは、この日を境に少し
ずつ母と話す事が増えたからだ。

22歳で見知らぬ地に越してきた、不安に肩を震わせる
あどけない少女の面影が見える話。

夜中、子供が熱を出し何処に行けばいいか分からず、
電話帳の端から端まで電話をかけた話。
私と同じように、不安で、心細くて、けれど誰にも頼れない
と子育てに邁進し続けた話。

そんな話を、ぽつりぽつりとして行く内に、私の中の理不尽
なまでに強靭な母の姿は崩れて行った。・・・

今はもう、私と子供が帰省することを知れば、一番に迎えに
来る。改札から出てきた私の子供の手をいそいそと取りに
行く母の姿に、かつて私の見た姿は無い。

母と子供と私で3人並んで歩くと、「まるで橋みたいね」と母が
優しく微笑んだ事があった。その横顔は、私が焦がれ、
追い求めた荘厳で美しいモザイク画の彼女を彷彿とした。

ずっと、ずっと、母のようになりたくないと思っていた娘の私。
けれど、母になってみれば、私はあなたになりたいと思った。
そう気づかせたのは、この小さな手があったから。この子が、
私とあなたを結んでくれたから。

けれど、それを正直に言うのは恥ずかしい。だから、私は
その横顔に、「子はかすがい、と言いますからね」

そう、うそぶいた。・・・

・・・