毎度のお運びに感謝申し上げます。そろそろ、春めいてまいりましたな。オーストリアなんてなところも、こう2月あたりになるってえと、こう日差しがめっきり明るくなるんですかな。いいもんですなあ。
昔の奉公人なんてのは、1年に2回、1月16日と、8月16日だけお休みがもらえたなんて話で、奉公に上がってから3年は里心がつくといけないなんてことで、家に帰ることも許されず、家の近くのご用向きなんてのも他の小僧さんにやらせるなんてことだったようですな。
なかまが藪入りに帰っている日には、1月なら寒さの盛りです。すっかり人気のすくない部屋でせんべい布団にくるまって、おっかあなんて泣いていたのかもしれません。
だから、旦那さんに呼ばれて、お前もそろそろよかろう、里心がつくなんて心配もあるまいなんてお許しを頂戴して、最初の藪入りなんてことになると、これはもう何日も前から、帰るほうも迎える方もそれはもううきうきで。金馬さんのおはこだった「藪入り」なんてのは、そこらをよく描いていますな。
こちらのお話に出てくるみのきちは、もう奉公に上がって何年か経って、自分の時間も少し持ているような、そんな年頃でしょう。なじみのお客さんや、なかよしも増えていることでしょう。
八:ええ、そうなんですよ。ご隠居に聞いたら、まあ、それが大変な話だったんです。まさかそんなこととは思っていないでしょう。びっくりしました。
みのきち:へー、それでこれがその曲のことを書いたもんなんだね。すごういじゃないか、八さん、熊さん。
八:ええ、ま、この湯豆腐がおいしくってね。ここらの豆腐てなあ、箸で割るくらいのもんでしょ。それが真っ白で、すっと触るだけで切れちゃうくらいに柔らかくってきめが細かい。何でも京豆腐なんだそうで、京の女に人はこういうのを食べていなさるからあんなにきれいで。あ、違いますね。そっちの話じゃなくて。
熊:おかべっていうんだそうだ。
八:だから、そっちじゃないだろう。へえ、おかべっていうんだそうです。まろはおかべが所望じゃなんておっしゃるんですかね、へえ。いやいや、そっちじゃなくて「しんどう」の方だって。
みのきち:おかべってのかい。そっちもいいけど、へー、「しんどう」ってのは音楽を作る人だったんだね。これが、その人が書いたものなの。田んぼの中におたまじゃくしが泳いでいるみたいだね。
八:ほら、ほらほら、熊、そうだよ。みのきちさんだってそういうじゃねえか。あっしもそういったんですよ、ねえ、そう見えるでしょう。どうも、音の高さや長さなんかを指図したものらしいんですがね、あとで長唄の師匠にでも見せてみようかと思っているんですよ。
みのきち:ほんとだね。話を聞くと、本当の音が聞きたくなるね。どんな曲なんだろうか。でも、どうして、そんなことをご隠居がご存じだったんだろう。
八:ええ、そこんところです。いちばん驚いたのは。あんまり、どこにでも聞こえちゃよくないようなんで、ちいせえ声で話しますがね。大黒屋ってのは先代から始まったお店だそうですが、へえ、そうです、今の旦那が三代目になりますね。ご隠居が2代目。お店も順調に大きくなっていますが、初代は何でもけっこうな年になってからお店を始められたんです。蝦夷地から帰ってこられて、蝦夷地や何かと交易するような商売を始めて、まあ、今のようなお店になったそうで。
みのきち:そうだよ。うちのお店でもご贔屓いただいているんだ。ずいぶん、苦労されたんだとかご隠居が話されたことがあったよ。
八:そうでしょう、そうでしょう。実は、ご隠居の先代ってのは、元々は伊勢の船乗りだったそうです。江戸まで荷物を運ぶ途中に嵐にあったんだそうです。
みのきち:そら、大変だね。で、どうなったの。
八:半年だか、そこら海の上を流れて、流れ着いたのは、蝦夷地のまださらに北の島で。とにかく、その島で4年ほど、島の人とすごしたそうですが、ことばも身の回りのことも全部違うのでずいぶん面倒もおおかったようです。
みのきち:え、外国の人といっしょにくらしていたの?それご禁制でしょう。
八:そうなんですよ。だから、大きな声で話せないんです。先代ってのはたいした人ですね。どうしても国に帰りたいってんで、なんとかその方法を工面しようと、とにかく島を出て、おろしあに行こうと、いかだのようなものをこしらえておろしあの陸までなんとかたどり着いたんだそうです。そこから、おろしあの帝にお願いすればなんとかあるんじゃないかってんで、あっしらは「地球儀」てのを見せてもらったんですが、そこには日本なんか見えないくらいに小さくて、その何百倍もありそうなおろしあのさらに向こうの端っこにある都まで出かけて、なんとかみかど、いや、このみかども女の人だっていうんですけれどね、お願いして、帰ってくることができたんだそうです。船で嵐に遭ってから10年ほどだそうです。
みのきち:じゃあ、お店を開いたのはそのあとのことだね。
八:ええ、そうなりますね。先代は蝦夷地に着いて、そこから江戸にきなすったということらしいんです。こっちで所帯持って、蝦夷地と荷物のやり取りする商売を始められたんだそうで。大黒屋ってのは、船頭の時のなめえで、そのまんま屋号にしたんだそうですよ。
みのきち:じゃあ、どうして「しんどう」なんてのを知ってたんだろうね。
八:そこですよ、そこ。先代が、おろしあの帝に会ったっていったでしょ。そのためには、ずいぶん待たされたんだそうです。あっしらも、帝、天子さま、お上なんてのは近くに寄ることさえできねえや。お大名の行列だって、こうやって下向いていなくちゃなんねえ。それを、日本から流れていった人が会おうなんてのはとてもじゃないが考えられねえ。何でも先代が、こうやっておろしあの国の端から端までやってきたことに感激する人があって、まあ、お公家さんなのかな、そんな人が口をきいてくださったっていうけれど、それでも難儀なことだったはずですぜ。待っている間に、先代はなかなかいろんなことを勉強していく人だったようで、向こうの鳴り物も勉強しなすったにちげえねえんだ。そのときに、聞いたのが、「しんどう」の話で、この田んぼにおたまじゃくしも、そのときに手に入れなすったものらしいんです。
みのきち:へー、そうなんだ。それにしても、八さん、えらくしっかり覚えたじゃない。すごいね。ごめんね、あたしが変なこと聞くものだから。じゃ、「がくせい」ってのもその人のことなんだね。
八:そう、そうなんだそうです。「せい」ってのは、「聖人」のことで、「がく」ってのは、鳴り物っていうのか、曲のことなんだそうです。
ってんで、八が聞いてきたのは、今私たちが「がくせい」だの、「しんどう」だので聞き及んでいるモーツァルトの話。少々、時代のことばが混じり合っていますが、そこはご容赦を。
実は、このお話全くのフィクションなんですが、漂流してアリューシャン列島に流れ着き、そこからシベリアに渡り、さらにロシアを横断してエカテリーナに謁見。10年を経て日本に帰ってきた大黒屋光太夫。光太夫が遭難した1782年は、天明の飢饉、そして、モーツァルトは26才、コンスタンツェと結婚した年。エカテリーナに謁見した1791年はモーツァルトが亡くなった年です。
そんなことから、おそらくは、ロシアにも天才音楽家モーツァルトの名声は聞こえ、そして、ペテルブルクに滞在していた光太夫もそのことくらいは知っていたんじゃないかってんで、そういう作り話です。
帰国した光太夫は、松平定信らの聞き取りを受けた後、小石川に家をあてがわれ、妻も迎えているというので、じゃあ、大黒屋さんて店でも開いてロシアや蝦夷地交易くらいやっていても不思議じゃない。あ、ロシアは抜け荷になるか。そんでもって、この時代になれば、その光太夫の倅が隠居しているころ、世はまさに幕末の緊迫を増している季節かなと。直に鎖国が破れ、外国の文化が一気に入ってくる、その少し前にモーツァルトの音楽が長屋に華開くのであります。
「ジャズ大名」みたいだけど。
最後は講談調になりましたが、長屋のモーツァルト談義、次回をお楽しみに。
昔の奉公人なんてのは、1年に2回、1月16日と、8月16日だけお休みがもらえたなんて話で、奉公に上がってから3年は里心がつくといけないなんてことで、家に帰ることも許されず、家の近くのご用向きなんてのも他の小僧さんにやらせるなんてことだったようですな。
なかまが藪入りに帰っている日には、1月なら寒さの盛りです。すっかり人気のすくない部屋でせんべい布団にくるまって、おっかあなんて泣いていたのかもしれません。
だから、旦那さんに呼ばれて、お前もそろそろよかろう、里心がつくなんて心配もあるまいなんてお許しを頂戴して、最初の藪入りなんてことになると、これはもう何日も前から、帰るほうも迎える方もそれはもううきうきで。金馬さんのおはこだった「藪入り」なんてのは、そこらをよく描いていますな。
こちらのお話に出てくるみのきちは、もう奉公に上がって何年か経って、自分の時間も少し持ているような、そんな年頃でしょう。なじみのお客さんや、なかよしも増えていることでしょう。
八:ええ、そうなんですよ。ご隠居に聞いたら、まあ、それが大変な話だったんです。まさかそんなこととは思っていないでしょう。びっくりしました。
みのきち:へー、それでこれがその曲のことを書いたもんなんだね。すごういじゃないか、八さん、熊さん。
八:ええ、ま、この湯豆腐がおいしくってね。ここらの豆腐てなあ、箸で割るくらいのもんでしょ。それが真っ白で、すっと触るだけで切れちゃうくらいに柔らかくってきめが細かい。何でも京豆腐なんだそうで、京の女に人はこういうのを食べていなさるからあんなにきれいで。あ、違いますね。そっちの話じゃなくて。
熊:おかべっていうんだそうだ。
八:だから、そっちじゃないだろう。へえ、おかべっていうんだそうです。まろはおかべが所望じゃなんておっしゃるんですかね、へえ。いやいや、そっちじゃなくて「しんどう」の方だって。
みのきち:おかべってのかい。そっちもいいけど、へー、「しんどう」ってのは音楽を作る人だったんだね。これが、その人が書いたものなの。田んぼの中におたまじゃくしが泳いでいるみたいだね。
八:ほら、ほらほら、熊、そうだよ。みのきちさんだってそういうじゃねえか。あっしもそういったんですよ、ねえ、そう見えるでしょう。どうも、音の高さや長さなんかを指図したものらしいんですがね、あとで長唄の師匠にでも見せてみようかと思っているんですよ。
みのきち:ほんとだね。話を聞くと、本当の音が聞きたくなるね。どんな曲なんだろうか。でも、どうして、そんなことをご隠居がご存じだったんだろう。
八:ええ、そこんところです。いちばん驚いたのは。あんまり、どこにでも聞こえちゃよくないようなんで、ちいせえ声で話しますがね。大黒屋ってのは先代から始まったお店だそうですが、へえ、そうです、今の旦那が三代目になりますね。ご隠居が2代目。お店も順調に大きくなっていますが、初代は何でもけっこうな年になってからお店を始められたんです。蝦夷地から帰ってこられて、蝦夷地や何かと交易するような商売を始めて、まあ、今のようなお店になったそうで。
みのきち:そうだよ。うちのお店でもご贔屓いただいているんだ。ずいぶん、苦労されたんだとかご隠居が話されたことがあったよ。
八:そうでしょう、そうでしょう。実は、ご隠居の先代ってのは、元々は伊勢の船乗りだったそうです。江戸まで荷物を運ぶ途中に嵐にあったんだそうです。
みのきち:そら、大変だね。で、どうなったの。
八:半年だか、そこら海の上を流れて、流れ着いたのは、蝦夷地のまださらに北の島で。とにかく、その島で4年ほど、島の人とすごしたそうですが、ことばも身の回りのことも全部違うのでずいぶん面倒もおおかったようです。
みのきち:え、外国の人といっしょにくらしていたの?それご禁制でしょう。
八:そうなんですよ。だから、大きな声で話せないんです。先代ってのはたいした人ですね。どうしても国に帰りたいってんで、なんとかその方法を工面しようと、とにかく島を出て、おろしあに行こうと、いかだのようなものをこしらえておろしあの陸までなんとかたどり着いたんだそうです。そこから、おろしあの帝にお願いすればなんとかあるんじゃないかってんで、あっしらは「地球儀」てのを見せてもらったんですが、そこには日本なんか見えないくらいに小さくて、その何百倍もありそうなおろしあのさらに向こうの端っこにある都まで出かけて、なんとかみかど、いや、このみかども女の人だっていうんですけれどね、お願いして、帰ってくることができたんだそうです。船で嵐に遭ってから10年ほどだそうです。
みのきち:じゃあ、お店を開いたのはそのあとのことだね。
八:ええ、そうなりますね。先代は蝦夷地に着いて、そこから江戸にきなすったということらしいんです。こっちで所帯持って、蝦夷地と荷物のやり取りする商売を始められたんだそうで。大黒屋ってのは、船頭の時のなめえで、そのまんま屋号にしたんだそうですよ。
みのきち:じゃあ、どうして「しんどう」なんてのを知ってたんだろうね。
八:そこですよ、そこ。先代が、おろしあの帝に会ったっていったでしょ。そのためには、ずいぶん待たされたんだそうです。あっしらも、帝、天子さま、お上なんてのは近くに寄ることさえできねえや。お大名の行列だって、こうやって下向いていなくちゃなんねえ。それを、日本から流れていった人が会おうなんてのはとてもじゃないが考えられねえ。何でも先代が、こうやっておろしあの国の端から端までやってきたことに感激する人があって、まあ、お公家さんなのかな、そんな人が口をきいてくださったっていうけれど、それでも難儀なことだったはずですぜ。待っている間に、先代はなかなかいろんなことを勉強していく人だったようで、向こうの鳴り物も勉強しなすったにちげえねえんだ。そのときに、聞いたのが、「しんどう」の話で、この田んぼにおたまじゃくしも、そのときに手に入れなすったものらしいんです。
みのきち:へー、そうなんだ。それにしても、八さん、えらくしっかり覚えたじゃない。すごいね。ごめんね、あたしが変なこと聞くものだから。じゃ、「がくせい」ってのもその人のことなんだね。
八:そう、そうなんだそうです。「せい」ってのは、「聖人」のことで、「がく」ってのは、鳴り物っていうのか、曲のことなんだそうです。
ってんで、八が聞いてきたのは、今私たちが「がくせい」だの、「しんどう」だので聞き及んでいるモーツァルトの話。少々、時代のことばが混じり合っていますが、そこはご容赦を。
実は、このお話全くのフィクションなんですが、漂流してアリューシャン列島に流れ着き、そこからシベリアに渡り、さらにロシアを横断してエカテリーナに謁見。10年を経て日本に帰ってきた大黒屋光太夫。光太夫が遭難した1782年は、天明の飢饉、そして、モーツァルトは26才、コンスタンツェと結婚した年。エカテリーナに謁見した1791年はモーツァルトが亡くなった年です。
そんなことから、おそらくは、ロシアにも天才音楽家モーツァルトの名声は聞こえ、そして、ペテルブルクに滞在していた光太夫もそのことくらいは知っていたんじゃないかってんで、そういう作り話です。
帰国した光太夫は、松平定信らの聞き取りを受けた後、小石川に家をあてがわれ、妻も迎えているというので、じゃあ、大黒屋さんて店でも開いてロシアや蝦夷地交易くらいやっていても不思議じゃない。あ、ロシアは抜け荷になるか。そんでもって、この時代になれば、その光太夫の倅が隠居しているころ、世はまさに幕末の緊迫を増している季節かなと。直に鎖国が破れ、外国の文化が一気に入ってくる、その少し前にモーツァルトの音楽が長屋に華開くのであります。
「ジャズ大名」みたいだけど。
最後は講談調になりましたが、長屋のモーツァルト談義、次回をお楽しみに。