「ダラダラ長いひとこと感想」その1。(ごく個人的な感想です)
タイトルの「アルマジロ」は、アフガン戦争最前線にある基地の名前とか。
「NATOが統率する国際治安支援部隊(ISAF)の一つで、イギリス軍とデンマーク軍が駐留する(チラシより)」その基地に、国際平和活動(PSO)として派兵された若い兵士たちに同行して、7ヶ月間「密着撮影」したというドキュメンタリー映画。
文字通りの「最前線」までカメラは行っていて、兵士のヘルメットに装着されたものの映像など、よくこんなことが許可されたなあ・・・とか、よく上映中止にならなかったなあ・・・とか、観た後つくづく思った。
メモには、「実際の戦闘を経験するうちに、若い人たちは変わっていく。その変わり方が予想通りであることに、なぜか自分でも驚き、ショックを受け、でも黙って見ているしかない・・・そんな2時間だった」とある。見ている間のあの寒々とした気持ちを、どう表現したらいいのかわからなくて、その後も感想を書く気になれなかった。
「想像していた通り」というのは、「人間だって生き物なんだから、殺し合いなどという体験をしたら、ただじゃ済まない筈」といった感覚からきている。
でもそのことは、今の私がいかに「戦争」から遠くなったかを示しているのだ・・・ということに気づくまでに、かなり時間がかかった。
実は、戦場・戦闘を経験した人たちのPTSDが、どれほど多くの人に、どれほど深刻な影響を残すかを、私は長い間知らなかった。ベトナム戦争当時から「帰還兵」の話はよく目にしたけれど、それがどれほど「生き物(人間)として当たり前のこと」なのかに、思い至らなかった・・・としか言いようが無い。
まして、所謂「戦争中毒」とでもいうような精神状態については、ごく少数の人に起きる特殊な事柄だと思い込んでいた気がする。
でも・・・『ハート・ロッカー』(時限装置つき爆弾の解除のプロ)や『アメリカン・スナイパー』(狙撃のスペシャリスト)のように「特別な」人や場合じゃなくても、PTSDも「戦争中毒」状態も、ごく当然のこととして起きるのだということ。
どうして自分はこれまで、そのことにこれほど鈍感だったのだろう。
あんなに「戦争」の影響が根深く残る人たち(家族)に囲まれて、「戦争」がどれほど非人間的なものかということを、日常的に耳にして育ったというのに・・・そんな疑問がいつもアタマのどこかにあって、放置されたままになっていた。
「戦争」によって(特に思春期に)精神的に傷ついた両親に育てられたことは、個人的にはあまり有難くない影響を私に残した。それでも、「反戦」を当然と思う素地が出来上がったこと自体は、今でも悪いことじゃなかったと思う。
それなのに・・・
私は「戦場」が人に残す傷について、あれほど鈍感だったのだ。それどころか逆に、「敏感であってはならない。それは恥ずかしいこと、情けないことだ」という教育を、わざわざ受けたような気さえしてくる・・・
今となると、私はそういう「戦争」感覚から離れるため、「戦争」(の記憶)から少しずつでも遠ざかるために、長い年月を費やしたような気がしている。
この『アルマジロ』を観た後、考えたこと。
私の周囲には、文字通りの「戦場」を「当事者」として体験した人が、たまたまいなかったということが一つ。「兵士」や「指揮官」として、「実際に戦場に立った」人がいないのだ。「戦場」を体験した人に話を聞く機会は何度かあったけれど・・・どの人も(他人と面と向かっては)「話しても構わない」ことしか、口にはされなかったのだと思う。
私が子どもの頃(60年代)は、大人は皆、何らかの形で「戦争」を体験していた。それは本当にさまざまな様相で、「戦争」というのがどれほど多面的で、しかも生活のすべてを塗りつぶすほど圧倒的なものかを、何気ない話の中に私はさんざん聞いた気がしている。
でも・・・現実の「戦場」については、人は「思い出話」として取り分けてあるものしか、他人(というか同様の経験をしていない人)には言わなかっただろうし、それはそれで当たり前のことだ。
多くの本が書かれても、触れられない、触れようが無い現実があっただろうと思う。どれほど多くの人が体験することであっても、名前も付けられないまま隠れている現実は日常のレベルでも色々あるくらいなのだから。
ドキュメンタリー映像というのは、そういう意味では大変な代物?なのかもしれない・・・と、初めて気づいた。
実際に目の前の「情景」として見せられることで、「部外者」にも、そういう「現実」が本当に存在するのだということがそのまま伝わる・・・といった意味で。たとえノンフィクションにも「創作」という要素は当然含まれているのだとしても。
(少なくとも私がこれまでに観た「戦争モノ」のドラマや映画では、PTSDや「戦争中毒」と呼ばれるような状態は、あくまで「特殊」なエピソードとして取り上げられることが多かった。フィクションの世界では、もしかしてこれからもそういう扱いが続くんじゃないかと。エンタテイメントというのはそういうニュアンスがある分野?という気もするし・・・等々)
半年前に観た映画について、とりとめの無いことを長々と書いている。
考えがまとめられないのに書かずにいられないのは、今のアベ政権のやりたい放題(ソンナモノが通ってしまう現状)が、たとえばこの『アルマジロ』に重なって見えるからだ。
私が自分の「鈍感さ」をはっきり自覚したのは、イラクに派兵された自衛隊の隊士で、帰国後死を選んだ方が相当数おられる・・・と 知った時だった。うまく表現できないけれど「あ・・・やっぱりそうなんだ」と。(目からウロコが落ちてみると、自分の鈍感さと無知に顔から火が出る思いがした)
ここまで書いてきて・・・やっぱり、自分が何が言いたいのかワカラナイ。
日本の歴史の曲がり角(ソンナモノがあるとしての話)は、既に曲がってしまったと(私自身は)思っているけれど、この先自分はどうするのかな・・・(きっと何もしないんだろうな~ということも、自分で判っているのだけれど・・・)
>自分の鈍感さと無知に顔から火が出る思いがした
↑
こちらに反応~。
私も数年前、沖縄で顔から火が出ました。
戦場だったことは知識としてあっても、全然わかってなくて、現地で沖縄の人にここも戦場だったと言われて(知らなかったことが申し訳なく)大ショックでした。無知は罪やねぇ
ムーマさんの頭の中で『アルマジロ』といろんなことがつながっていたのですね。沖縄にもつながりましたよ~。
『アルマジロ』は、戦争から遠くなった?時代を生きる若い人たちが
戦争に参加することを選ぶ、或いは体験したときどう感じるか
或いはそれを通過した後、どういう生き方を選ぶか・・・
そんなことを見せてくれて、考えさせられた作品でした。
・・・沖縄は今現在、かつての「戦争」とその後次々起こる戦争?とに
直接関わることを強いられているんですよね・・・
足の下の地中に「骨が埋まっている」ことを
私は知らないことがよくあります。
ほんとに、無知は罪やと思います(でも、私自身は相変わらず、ずっと無知なままなんですが(^^;)
見に来てくださって、書き込んでくださって
本当にありがとう! 嬉しかった(^^)
沖縄からは目が離せない・・・それだけは
私も思っています。