まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

みんな頑張っている

2025-03-07 | 考え方
人はそれぞれに違う。
生まれも違えば、育ちも違う。
だから価値観も違えば、体質も違う。

お腹が出ている人もあれば、痩せて細い人もいる。
成績の優秀な人もあれば、勉強しても身に付かない人もある。
健康診断の結果がいい人もあれば悪い人もあるし
血圧が高い人もあれば低くて通院している人もある。
薬を飲む必要のない人もあれば、たくさん服薬している人もいるし
体重が重い人もあれば、軽い人もある。
美人やイケメンもいるし、不細工な人もいる。
ふつうに歩いている人もあれば、杖を使う人や車いすの人もある。
トイレで用を足すにしても人工肛門の人もいる。
色の白い人もあれば黒い人もいるし
ガリガリでガイコツのような顔をしていて
他人からは品素に見えていてもそれが自慢な人もある。

みんなそれぞれの体質や障がい、疾病を抱えながら精一杯生きている。
他人からはどのように見えていても本人の思いが違っていたり
もう少し要領よく生きればいいと思っていても
本人は必至だったりもする。
みんなそれぞれに抱えもつものが違い、考え方も異なる。
物事をよ~く考えている人もあればあんまり考えていない人もいる。
なにかに囚われたような生き方の人もあれば開放的で自由な人もあるかと思えば
他人にはどうでも良さそうなことをああでもないこうでもないと悩んでいる。

誰もがみんな、それぞれに精一杯生きているだけなのに
どこかしら人より上に立てるように相手のアラを見つけてはあざ笑う
人間の浅ましさがあり、それにより傷つく人が出てくる。

車椅子に乗った若者に「あなた若いんだから歩きなさい」と言う人は見かけない。
白杖を持った人に「あなた元気なんだから杖なしで歩きなさい」と言う人もいない。
車椅子や白杖を持つ人のようにちゃんと理解さえ出来ていればいいんだけれど
どこかしら無理解な部分があって、つい人を馬鹿にしがち。
本当はみんなそれぞれに、めいめい頑張って生きている。
そのことが分かる人になりたいと思う。

突然の旅行①

2025-02-06 | 考え方
妻は私自身のことや父のことを気遣いながらも
自らの老いとも気を付けながらも
仕事も続けて頑張っている。
元々はおっとりとした性格だったのに、
最近では人が変わったように忙しくしており
なんとなくイライラしているのが分かる。
妻の頭が爆発しないように息抜きをさせてやりたいが
どうすればいいのだろうか?

妻は昨年あたりから札幌雪まつりに行きたいと言ってる。
しかし私の体調や父の介護のことを考えると物理的に諦めざるを得ない。
まあ近畿圏内で気軽に行ってこられる所はないだろうか?
いや日程についても明日と明後日の2日間くらいしかない。
たまたまトイレに起きてきた妻に提案すると、喜んでくれたが
明後日は出勤予定になっている。
しかしなんとかなるんならどうしても行きたいと言い
夜中じゅうネットで調べて候補地を探す。

問題はJRで最寄り駅まで行けても
そこからの送迎が可能でなければ行けない。
お金持ちの家庭ならタクシーを利用すればいいのだが
路線バスで40分、そこから徒歩で10分と言えば相当な距離だ。
一応、事前予約をすれば御坊駅から可能とあるが、
10人以上とも書かれてあり
そもそも今日の今日に申し込んで段取りができるのだろうか?
申し込んだものの送迎が出来ないと言われてキャンセルすれば
当然、当日分のキャンセル料が発生することになる。
宿泊せずして宿泊料がかかることだけは何としても避けたい。
しかたなく朝まで待って電話で確認を取るより方法がない。

朝7時に電話をしたが電話には出られず、8時になって電話をすると
ベッドの部屋は満室とのことだったので
送迎の件を聞かないまま電話を切った。
しかしネットサイトを見れば、トリプルなら空いており
再び電話で送迎を確認して申し込んだ。

備わり

2025-01-16 | 考え方
昨年11月からくよくよと思い悩んでいることがある。
期待をしていた人に叱咤激励をしたつもりだったが、
ポキンと折れて辞めてしまったことだ。
彼女は手話の初心者で熱心に学習されていた。
しかし学習する方向性が間違えていると感じていたため
分かるように説明したつもりだったが、
それを機にやめてしまったようだ。
私自身の言い方に問題があったとも受け止めているが、
そもそもの向かい方が違っていたようにも思える。

私がよく例に出す話に震災の被害者の話がある。
台風とは違い、地震は突然襲われるから対策出来ることは限られている。
住む家を失ってやむを得ず仮設住宅に入る。しかしそこには期限がある 。
行き先の決まった人から仮設住宅を後にして新しい生活を始められるが、
期限になっても出ていけない家族がある。
地震はその人にだけ襲われたのではない。
地域の方々が全員同等の被害を受けている。
それ自体は悲しいことだが、次の住処の目処が立つ人と立たない人がいる。
それはそれまでの何もなかった頃の生活の問題であり、
貯蓄であるとか保険を掛けていたとか人間関係だったり、
さまざまな準備や生き方を試されているように思える。
「あの地震さえなかったら・・・」と
同じようなことでも他人のせいにしてみたり、
地震のせいにしてみたりして、
自分自身の問題と受け止めていないことが根底にある。

私がかつて大学を卒業して就職をした福祉施設では、
脳梗塞で半身麻痺になった方が、
「ワシが働いて食わしてきたのに、この病気になった途端
離婚させられて放り出された」と聞いて、
悪い奥様だなと思っていたが、
本当はまともに給料も入れず女遊びに明け暮れて
困らせてきたその人自身の生き方に問題があり、
この上介護までさせられては敵わないと捨てられたのであったと
あとになって知ることになった。

要するに、何もない時の生き方の問題であり、
私の祖母はそのことを「人間の備わり」と言っていた。
今回私の言葉でやめた人も、私が何も伝えなかったとしても
結局、他の理由でもやめてしまう人と言える。
かつて一緒に手話をしていた仲間がこんなことを言っていた。
「みんな辞める機会を探しているように見える」と
手話を通じて沢山の仲間が増えても、いつしかみんな辞めていく
そんな状況を嘆いた言葉だった。
そんなことを言った彼は、昨年御病気で亡くなられたが
誰もが自分の否を認めたくないから
なにかと言い訳をして辞めていくんだ。
そう思って、そろそろ立ち直ろうと思う。

老害

2024-12-28 | 考え方
昨日書いた「大丈夫ですか?」や「こちらが〇〇になります」という表現など
私たちの世代には理解しがたいことが増えたと感じる。
もう完全に日常会話レベルで世間とのギャップを感じるようになってきた。
それにも増して、嫌な言葉がある。それは「老害」。
ここで「大丈夫の意味」を尋ねたくなるのだが、
どこかで「こんな質問をしたら老害に思われやしないか?」という不安がある。
老害という言葉は、自分たちも経験してきたから分からない訳でもないが
それでも自分たちの世代と異なる人の話も聞いておこうと
ある意味、我慢して聞いておくことであり、高齢者を敬うことだと思ってきたが
今の時代には若者が中心で、高齢者は若者の気持ちに沿うというよりは
むしろ媚びながら生きていかなければならないだろうか?
この気持ちは高校生の時にクラブのOBの方に意見されるのはうっとおしく
カンパだけ協力してほしいと思っていた気持ちが
卒業した途端、ここで一言言っておきたくなる。
しかし卒業をして2年3年経てば、息のかかった後輩の比率も少なくなり
いつの間にかアウェイ感を感じられるようになり、高校に行かなくなる。
正にそれこそが(当時はそんな言葉はなかったが)老害だったのだろう。

どうして若い人たちの気持ちに寄り添い、媚びなければならないのだろうか?
さまざまな年代の価値観を大切にするという意味からすれば
私たちの世代が若者から学ぶことも多いが
若者たちも高齢者の話を聞くべきであり、
話を聞いたうえでどう生きるべきなのかは個々人で模索すればいい。
特に核家族化が進んで高齢者と一緒に生活する機会が失われてきたことで
高齢者を理解する機会を失い、どう付き合っていいか分からないから
そこで老害という言葉が生まれ
老害というバリアを張ることで余計に「井の中の蛙」になろうとしている。
高齢者側も若者に嫌われないように心掛けるようになり
お互いにますます疎遠になっていこうとする。
本来であれば、高齢者の気持ちを理解することで「大海」を知り
世の中を理解していけるのかもしれない。
現に高齢者施設で働く若者が増えているが、
介護技術は学校で学べても「世間話ができない」若者が増えている。
世間話が出来るからこそお互いの中に信頼関係が生まれていくのだ。

それなら私はあえて「老害」に進んで成ろう。
嫌われ役を買って出て世の中の役に立ちたい。
そんな風なウザい大人であり続けたいと思う。

年齢のせい

2024-12-26 | 考え方
「何でも歳のせいにするのは良くない」ってネットニュースで読んだことがある 。
どうやら自分の出来なくなった理由を年齢のせいにするのがいけないらしい。
先日、自分の列の前の人がなかなか椅子から立ち上がれず、
「私、歳やから立ち上がれないの」と必死に言い訳をしながら立ち上がられた。
私が「歳だなんて」と声を掛けたら、「もう80歳だから」と言っておられた。

80歳になったから60歳の時に比べたら足が思うようにいかなくなったのは
事実だろうけれど、80歳でも元気に動ける人もあるし
若くても病気やケガで自由に動けない人もいる。
だから年齢を理由に言い訳をするのが良くないのであろう。
現にその方は80歳でも自由に外出が出来て、
梅田のある場所まで阪急電車に乗って、独りで介添えも無しに来られている。
自分よりも若い人を相手にして年齢のせいにすれば、
それ以上に言い返される心配もなく、
何でも年齢のせいにすることがいけないということなのだろう。
むしろ以前より動きは鈍くなったけれど、
こうやって自由に過ごせることがありがたいと感謝していかなければならないのであろう。
つまりは、自分が出来ないことの理由にしたらあかん。
愚痴を言ってるのはあかん。自分で限界を決めたらあかん。ということなのだろう。