まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

高齢者に優しくない

2024-11-10 | 受け止め方
駅のきっぷの自販機で年配の男性が困っておられたので
「お手伝いしましょうか」と声を掛けた。
男性はくしゃくしゃになった千円札を入れようとされているが、
入れようとしているのはカードを入れるところで、お札を入れるところじゃない。
「お札はこちらに入れるんです」とお伝えするが、
くしゃくしゃになった千円札は、なかなか吸い込まれていかない。
「私がやってみましょう」と言って千円札を受け取ると、
自販機から何やら声が聞こえてくる。
「ご希望のボタンを押してください」「ご希望のボタンを押してください」と
繰り返し声が聞こえる。領収書の要否を訊かれている。
領収書のボタンを選んでもらうと、千円札が引き込まれていった。
何でもない人にとってはふつうのことでも、難しい人には難しい自販機である。
ますます弱者が切られていく社会になっていることに気付かされた。

その後、電車に乗車し発車時刻を待っていると、
出発前の運転士に何か尋ねるお年寄りがいた。黙って聞いていると、
「〇〇駅ではタクシーが拾えますか?」という内容だが運転士もご存じでないらしく
ちゃんと教えてもらえなかった様子。
それを見ていた私は、席へと戻るお年寄りを呼び止めて
「2駅先の✕✕駅も3駅先の〇〇駅にもタクシーは拾えません。」
「タクシー乗り場があるのは、3駅目の〇〇駅からさらに1駅先の△△駅か、
次の▼▼駅しかありません。」とお伝えしたが
「4駅先の△△駅では行きすぎるんです。」と困った様子。
2駅目の✕✕駅の少し手前から車窓を眺めて探しておられる様子だが見つかる訳がない。
どうやら4駅目の△△駅で降りる様子だったので
「一筋移動すればタクシー乗り場がありますよ」と伝えて
「お先に降ります。気を付けて」と声を掛けて降りた。

思えば世の中は高齢化社会と言われながらも、
実は高齢者に優しくない社会であることを感じさせられる。
とはいえすでに初老の時期に入っている自分にとっても
「明日は我が身」という気がしてきた。
高齢化社会だからこそ、高齢者に優しい街づくり求められている。

だめだこりゃ!若者

2024-11-09 | 受け止め方
最近大学生の若者と一緒に活動をする機会があった。
彼らと話をしていて感じられるのは、
意外に世の中を見ておらず、社会のさまざまな事柄が蓄積されておらず
その様子はもはや私たちと同じ社会で生活しているとは到底思えない。
と言うのも社会で生きていれば当然、町のあちらこちらで見られる現象や職業、
行動の話をしてもまったく記憶に残っていない。
例えば測量士。一人の人が三脚を立ててカメラのようなものを覗き
もう一人は目盛の付いた棒を持って測っている。
自身もあれで何が分かるのやらさっぱり分からないのだが
道を歩いているだけで、そういう仕事をされている方の姿を見かける。
また1軒1軒をまわって水道メーターのフタを開けて
水道メーターを記録して今月の使用分をポストに入れていく人を見かけるが
そういうことには関心が無く、記憶にすら残っていない。
そのため、社会の中のいろいろな話をしていても実感がなく、
生まれて初めて聞いたような話として受け取り、
「ああ、そのことか!なるほど」というように繋がっていかない。
失礼ながらどこかの惑星から来た宇宙人のような気がしてきた。

これもまたスマホによる影響なのかもしれない。
たしかに大学生に限らず毎日見かける人たちもスマホの画面を見て、
耳にはイヤホンで武装している姿を見れば一目瞭然である。
電車に乗ってもカーテンも閉めたままで、外の天気も紅葉の進み具合にも関心が無く
貨車にでも乗っていても平気な様相である。
スマホはテレビとは違い、必要とする情報はどんなことでも手に入るが、
必要としない情報は手に入らない。
使う側の関心度が低ければ、向こう側から情報は提供されない。
だから何日も前から台風が接近しているので、この日は雨だと分かりそうなものでも
「雨が降るなんて聞いていない。」と土砂降りの中を傘も差さず走る姿を目にする。
テレビを観ていれば、ネットニュースを見ていれば簡単に情報が得られるのに
バカじゃないのと思ってしまう。
台風や地震の影響で電気が止まればスマホも使えなくなれば、生存することも危うい。
日頃の蓄積がなければ、創意工夫することも出来ず、これからの社会を考えると
どんどん外国企業との競争にも負けていき、日本の未来もない。
世も末というべき末期症状である。

交際前の初デートにおける「おごりおごられ」問題

2024-11-07 | 受け止め方
「初回のデート費用を負担してもらえると、単純にうれしいと感じますし、
『頼りがいがある』『“私のため”に何かをしてくれる人』と印象が良くなったり
『体目的かも?』『遊びかも?』といった不安が払拭されたりします。
という記事を読んで本当に馬鹿げた話だと感じる。
そういう風に受け取ってもらえるから賢い男性ほど初期投資を惜しまない。
私なら予想以上のお店に連れてもらい、すべて負担をしてもらう機会があれば
むしろ『体目的かも?』『遊びかも?』といった不安を持つべきでしょう。
風俗に金を支払うより安ければラッキーなのだから。

しかし、男性がデート費用を女性より多く負担する、もしくは全額負担するのは、
決して“当たり前”ではないんですよね」
「特に、相手に好印象を抱いたなら『おごってもらって当然』の態度は取らず、
感謝の気持ちを伝えることが重要。
逆に男性は、デートの負担は自分の誠意を表現する一つの手段ではありますが、
あまりにも失礼な態度の相手には、無理におごる必要もないのだと思います」とコメントを寄せています。

私の場合、交際前の初デートのことなど覚えていませんが
基本的には特別な日以外は割り勘にしてきました。
そんな損得でモノを見るような女性とは仲良くなりたくはないし
男性側が沢山支払うことで、それが当たり前となったり、
引け目を感じてほしくはないからである。
またプレゼントもほとんどしていません。
プレゼントをして羽振りのいい人というのは、単に金遣いが荒いだけで
付き合うだけでサヨナラするには都合のいい男性となるかもしれないが
一生の伴侶として見る場合には、セコい人も困るけれど止めた方がいい。

エサも針も付けず釣り竿に糸を垂らしたまま、じっと待っていたら
妻が釣り上がってきて、結婚をして私の生簀に入ってもらってからは
どんどん歓待してお金も自由にしてもらいましたが
そんな女性だからお互いに無駄遣いをしない反面
お互いの愉しみでもある旅行には沢山お金を使ってきました。
定年で退職して毎日ブラブラしながらも
年金生活になってからの生活の練習をしているのも
すべて妻がコツコツと貯めていてくれていたおかげです。
共に同じ価値観をもち、いい夫婦になりましたし
妻には毎日、感謝しています。

目先の損得で物事を考えず、共に50-50の関係をお勧めします。
私の場合、その価値観は「障がい者福祉論」で学びました。
健常者と障がい者とが共に理解しあうことを
恋愛関係や夫婦関係で試してきました。
皆さんも幸せになって下さい。

参考:初デート費用、女性は「1円もおごりたくない」「男性が全額負担すべき」

いらち(短気)な人の話

2024-11-05 | 受け止め方
いらちな人というのは、悪い意味ばかりではない。
バイタリティにあふれていて、何かを頼むとすぐに行動してくれる。
要領もよく、立ち回りも早い。
ただ一緒に何かを成し遂げることが苦手で、
すべてを自分のベースで進めて行くため、周囲の者は付いて行けなくなる。
外から見ると何でもやってくれてありがたい存在であり、羨望の対象だが
内輪では独りでどんどん突っ走って迷惑な存在なのかもしれない。
夫婦であれば、初めは頼もしいだったんだけれど
だんだんと自分の居場所が無くなり、
外向的な人なら不倫、内向的ならうつになるかもしれない。
いらちな人は他人のことも信じられなくなり、物事を任せきれない。
どちらかと言えば従順に何も考えず、右から左へ延々と出来る人になら頼めても
臨機応変に立ち回る人には任せられなくなる。
他人からの意見が素直に受け入れられないために、
みんなの意見をまとめるようなことはせず、打ち合わせなしにどんどん進めていく。
そのために周囲の人たちはどう協力すればいいのか分からなくなっていく。
自分が必要とする情報しか流さないために、
周囲の価値観と自分の価値観に乖離がどんどん開いていき、
ブレーンになろうと協力的な人までも受け入れられなくなる。
そういう人は結局のところ自分自身しか信じられなくなり、
身体を鍛えはじめ「身体は嘘を付かない」と筋肉隆々になっていくことも珍しくはない。
ますます孤独になるが元気なうちはそれでもいいが、
年齢を重ねて自らが自由が利かなくなってくると、他人に委ねていかなければならなくなるが
周囲に自分を理解してくれる人がいないためにますます孤独化していき、
最終的には厄介な老害をまき散らすお年寄りになっていくのかもしれない。
かつての旧友にそういうタイプの人が居た。
今はまったく付き合いがないが、友人を通じて彼の噂が入ってくる。
初めは評判がすこぶるいいが、ある時期からは悪口を聞くようになる。
そういうことの繰り返しから、勝手に想像を膨らまして書いてみました。
私は心理学者でもなんでもなく、独断と偏見の塊ですので
皆様方には誤解のありませんように。

障がいのある人に接すると幸せになる

2024-11-04 | 受け止め方
障がいがある人に接していると、さまざまな固定観念が潰されていく。
自身にも障がいがあり、いくら努力をしても出来ることには限界があり、
「ふつうはこうするものだ」というふつうができないことがいっぱいある。
いくら頑張ったって努力をしたってどうにもならないこともいっぱいあるが、
それでも生きている。
かつて『典子は今』という映画があった。
主人公の彼女は、母親が妊娠中に服薬したサリドマイドにより
両腕の無い状態で生まれてきた。
しかし器用に両足で包丁と野菜を握り、まな板の上で切っていく。
少し高い台の上に載って両足でフライパンで炒め物をつくり
自立生活をされていた。
私はこれまでは両親から「食べ物を足で粗末にしてはいけない」と教えられてきたので
彼女の調理する姿が衝撃的で、何気ない教訓でさえも彼女を傷つけてきたと知り
これまでは当たり前で正しいことと思われることでも疑ってかかり
正しい見方へと修正しながら自身を淘汰していく生き方が始まった。
こんなふうに受け止めていけば、
この世の中にはどれほどの固定観念が氾濫しているのかが分かってきた。
この固定観念こそが我々を押さえつけて生きにくくしている。
ケガや病気、うつなどで苦しんでおられる人たちを見ていて
この固定観念がなければ、もっと自由に生きられるのにと思うことが多い。
私は障がいのある人に接することでたくさんのことを淘汰してきた。
そのおかげで自由な発想が出来るようになってきた。
ひとつのイベントでも開催する側の立場と参加する立場に
ギャップを感じることもあるが、双方を経験することで無くしていける
固定観念も少なくない。
私はあの映画以降、さまざまな障がいのある人に接するように心掛け、
障がいのある人に助けられ、人生を幸せにしてもらっている。