まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

ヨーグルト

2024-09-30 | 感想
散髪に行こうと自転車に乗っていたら、交差点の真ん中にヨーグルトが落ちていた。
アロエ入りの4個1組のタイプのものだ。
まだ冷たさが残っているから、ついさっき落とされたのだろう。
おそらく自転車で買い物に行った帰り道、交差点を曲がる際に
ポトンとヨーグルトだけがカゴから落ちたのだろう。
しかし周囲を見渡すが、誰一人歩いている人も自転車の人もいない。
すると前から軽トラックがやってきたのでとりあえず拾ってみた。
そのままにしてたらおそらく自動車に轢かれて終わりだろうし、
その後を掃除する人にも迷惑がかかる。
だからといって道路の隅に置いて帰れば
結局、誰にも気づかれないままゴミになってしまう。

道を歩いていたら誰かが落としていったとみられるハンカチなどが
電柱の目に付きそうな位置に掛けてあることがあるが、
だいたい落とした人は落とした辺りを探しながら歩くから
まさか落とした場所より高い位置にあるとは思わないから気付かれない。
善意のつもりでもありがた迷惑になりやすいから
落ちている時は拾わず、そのままにしておく方が見つかりやすい。
しかし最近は裕福になったせいか、落としたものを探しに行く人も少なくなった。

まあそんなことも考えながら、ヨーグルトには罪はないから持ち帰ることにした。
妻が4日間掛けて1個ずつ食べた。
今日で4個目が終わったので「また拾ってきて」と言われたけれど、
そう簡単には落ちていない。

みんな自分のことで精一杯

2024-09-29 | 考え方
マンションの駐輪場に行くと、
私の自転車のハンドルが他人の自転車のハンドルとブレーキワイヤーの間に入っていて、
自転車を出せない。
どうやら私の駐輪している自転車の隣に無理矢理入れたため
自転車のハンドルとブレーキワイヤーの間に私の自転車のハンドルが刺さっている。
駐輪場は可動式なので、隣との間に隙間を開けてから入れればいいのに
これでは私の自転車が出せないだけでなく、自分のブレーキワイヤーも切れてしまう。
もっと自転車に感謝をして大切に扱えばいいのにと思う。



駅に着いたら、駐輪場の自転車が10台くらい転けていた。
風もあまり吹いていないので、これも自分の自転車を出そうとして動かした際に
両隣から先の自転車が将棋倒しになったまま放っていった感じである。
電車の発車時刻までは10分くらいあったので、改札口に入らず自転車置き場に戻って
転けていた自転車を起こしておいた。
その際、ブレーキ先のチョボがとなりのカゴに引っかかると取れない。
おそらくハンドルを持った時に手が滑り落ちないための工夫だろうが
街中の自転車にはふさわしくない。



そうこうしていると一人の女性がやってきて通路上に自転車を停めていった。
急いでいるのだろうと見過ごしたが、その後改札口に入り、
エレベーターに乗るとさっきの女性も後から乗り込んできた。
私は後方から乗る人を確認している最中に、すぐさまエレベーターを閉める。
何も急いでなければ通路に駐輪しなくてもいいのにと思い
「あんな場所に駐輪したら盲人には危険な行為になりますよ」
と声を掛けると、ホームの私と反対の方向へ歩いて行ったが
しばらくすると私の方へと歩いてきてベンチに座った。

別の日に地下鉄に乗り、次の駅で降りようとドア付近に立っていると、
席に座っていた小柄な女性が私と隣に立っている人との間に無理矢理入り込んできた。
相当急いでおられるのか? そうでなければ厚かましい人だなあと思いつつ、
「私も次で降りますから」と伝えたが、隣に立っていた人は降りることなく立ったまま。
最近は、降りもしないのにドア付近に立ち塞がっている人が増えたから
ああいう行動をとらないと電車からスムーズに降りることもできないんだと理解した。

また今日乗ったJRでは4人掛け向かい合わせの座席の通路側にだけ
座っている人たちを見た。
ふつうは斜めに2人座る場合はよく見られるが、ああいう座り方は初めて見た。
他の人に座らせたくない気持ちの表れだろうか?

どの人も自分のことで精一杯になっていて余裕がみられない。
社会の中の一員として生きているのに、自己中心的過ぎる人たちが目立つ。
なんとなく誰もが切羽詰まったようにも見える。
この社会はどうなってしまったのだろうか?
昔から人情の町大阪と言われてきた土地だけど、今は人に冷たい街になってきた。
大阪はもう「悲しい色」になってきたね。

他人の目

2024-09-28 | 受け止め方
兵庫県知事が百条委員会を経て不信任決議され失職することになった。
ご本人の口からも「鋼のメンタル」という言葉が出るくらいに
毎回の会見を見ていても彼の話には感情というものが感じられない。
そのため記者会見を見ていても、
聞いている人々を立腹させていてもまったく動じることはない。
だから自分のしてきたことと百条委員会が問題視している問題との関係性や
自殺者との因果関係についてみても
彼にとってみればまったく別問題であり、
何がこんなにも社会問題化しているのかを理解していない。
ただ選挙時に推薦してくれたり応援してくれた政党や仲間が
ある時期を機に突然反旗を翻(ひるがえ)したことにだけには涙を見せた。
しかし彼にしてみれば、どういう理屈で仲間と思っていた人たちが
急に立場が変化したのかの因果関係は理解できない。
だからこそ四面楚歌になっていても再選を目指して出直し選挙に臨むのだ。
私には、何らかの障がいがあるとしか思えない。

同じような人を知っている。
その人とは付き合いも長いけれど私としては感情が感じられない。
その人も頭のすごくいい人で、家庭の事情で高卒で働くことになったが
彼のような人が大学に進まないのはもったいないと
高校の先生が両親にお願いに来られたくらいである。
また母親の信心がそのまま身についているので
言葉の上では「かわいそうに」と発したりして
お見舞いを持って行ったりと
他人の目には慈悲深く見えるのだが、
本人の気持ちの中に慈悲な気持ちはなく
あたかもAIのようにこういう場面ではこういう態度を取るというように
マニュアル的に行動しているだけにすぎない。

私が子どもの頃に成績が振るわず、いつも立たされていた時に
その人は自分の通知表を見せて、
自分がどんなに勉強が出来たのかを説明されたことがある。
成績の悪い私に、どうして自分は優秀だった通知表を見せたのか
子ども心にも理解できなかったのを覚えているが
今にして思うと、自分にとって勉強は出来て当たり前のことなので
勉強の出来ない子どもの気持ちが理解できなかったのだろうと理解している。
この人も同様の障がいがあるという仮説を立てた時にはじめて
これまでのこの人の行動パターンが腑に落ちたのだが
未だに周囲の人たちからは「思いやりのある優しい人」で通っている。

私が長年ソーシャルワーカーとして
さまざまな障がいのある人たちに接してきたことで
その人を当てはめて考えてみて、障がいがある可能性を見出して
彼の行動パターンが理解できたけれども
「思いやりのある優しい人」にしか見えない人たちには
いくら説明しても通じない。
それどころか私自身が「おかしな人」に見られてしまう。
それはあたかも「フーテンの寅さん」のような感じでもあって
近所にいる人にとってみれば、評判が良いオジサンだけれども
家族に居れば迷惑千万ということになる。
ただ救われるのはケアマネージャーをしている妻も
私と同じ受け止め方をしてくれており、夫婦間での齟齬(そご)はみられない。

これまでの知事の一連の発言を聞いていて
分かる人にはすでに周知のことなのだろうけれど
たとえ分かっていたとしても、言葉には出せないのかもしれないが
みんなどんな目で見てるのだろうか?と不安になってくる。
私たちとは土俵の異なる宇宙人のような人の話を切り取っても
所詮、受けとめ方が異なるのだから話になる訳がない。
知事自身のことよりもコメンテーターの扱い方にモヤモヤしている。

父の認知症状

2024-09-27 | 感想
昨夜、父から2回電話がありました。
1回目は、「靴持ってきてくれたんか?玄関見たら、靴でいっぱいになっていた。
持ってくるんやったら黙って置いて行かず、一言言ってくれよ」というものでした。
靴をもっていったのは1ヶ月も前のことで、説明し一度履いてもらいました。
その時は相当喜んでいましたが忘れているようでした。
その場では「ごめんごめん、今度からそうするわ」と言っておきました。
2回目は、夜中寝ている時に電話が鳴り、
「居間のクーラーから水が漏れるんやけど電気屋さんに連絡したらええな」
という内容でした。「そやなあ、明日電話したらええな」と答えています。
時々こういう認知症状のスイッチが入るようです。


それでも独り暮らしで自転車で買物をして自炊しながら生活しており、
毎日何らかの予定が入っている父の生活はたいしたものです。
翌日父の家を訪問して
「昨日何回電話してくれたのか覚えてる?」と尋ねましたが
「あんまり覚えてない」と言ってました。
「先月、靴を持って行き自分でも履いたのは忘れてたんやろう」
と尋ねると「ああそうやったな。思い出した。」と言っていた。
「まあ忘れることもあるわなあ」と答えておきましたが
本当に思い出したのかどうかは分かりません。
クーラーも「水滴が2滴落ちた」と言うので
フィルターを外し、内容を確認したフリをして
「問題ない」と言って再びセットしたら納得していました。
まあ92歳ですから生きてるだけで儲けものと受け止めています。
後どのくらい独り暮らしが出来るやら分かりませんが
毎日何らかの予定でいっぱいの父だから
長年ソーシャルワーカーをしてきた経験で判断し、
ケアマネージャーをしている妻と相談しながら
なるべくは自由な独居生活をしてもらおうと思っている。

「大丈夫です」は、やっぱ馴染めんわ

2024-09-26 | 反省
改札口に向かっているとヘビーカーを押している若いお母さんが
私のすぐ前を歩いている。
「早く行ってくれないかなあ」と思いながらもゆっくり進むベビーカーのすぐあとを
追いかけるようにして付いていくと、改札口のすぐ直前でそっと脇にそれた。
何か起きたのだろうかと心配になって、
横を通り過ぎる時に「出られないんですか?」と声を掛けたら
「大丈夫です」と返ってきた。
そこは「ごめんなさい」か「ありがとうございます」じゃないかと思った。

つまり「大丈夫です」という言葉には、他人を思いやる心はなく、
自己中心的な考え方から発生している言葉なんだとここで悟った。
自分を中心したものの考え方しか出来ないから
自分の行動が他人に迷惑を掛けているかもしれないなどとは
考えられなくなっている。
それは彼女だけの問題ではなく、
自分がエレベーターに乗ればすぐに閉まるボタンを押すことや
電車から降りないにもかかわらずドア付近に立っていたり
満員電車の中でもイヤホンを付けてスマホに没頭して
自分だけの世界に入り込んでいる人々のように
さまざまな人たちのお世話になりながら社会の中で生きている
といった社会の中の個人という位置づけではなく
単に自分だけが生きているような自己中心的な考えの中で
生きていることの現れだと理解するとともに
「大丈夫です」という返事で片付けられてしまう社会は間違っている。
昭和世代の私には、やっぱり馴染めないと分かった。