まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

一昨日、岡山から帰ってきました

2024-08-31 | 鉄道ファン
一昨日(8月29日)用事があって岡山まで行ってきました。
帰り、新大阪駅まで乗る予定で
岡山駅15:58発のぞみ36号東京行きの2号車(自由席)に乗った。
こののぞみ号は、岡山駅を出ると新神戸駅のみに停車する。
発車してしばらくすると、
「現在大雨のため、博多~広島間で運転を見合わせています」
という車掌のアナウンスがあったが
自分たちは東京に向かっているのに過ぎた地域の情報なんか
必要ないと感じた。
その後、「静岡~掛川間で大雨のため運転を見合わせています」
というアナウンスがあり、こういう情報はありがたいと感じた。
それからしばらく走った後、停止信号により姫路駅の手間で停車する。
しばらく停車した後、
「この列車は姫路駅に臨時停車します。
新神戸、新大阪へお急ぎの方は、次のさくら556号にお乗り換え下さい。」
とアナウンスされると、乗客たちが網棚から荷物を下ろし
一斉に出口へと進もうとする。
私は通路を隔てた席に座っていたサラリーマンに声を掛け、
「まだ姫路駅に着いていないんですよ。
しかもこのあとどのくらい停車するのか分からないんですよ。」
と伝えると、得心されて我に戻られる。
人はこういう感じでパニックを起こすんだと思った。

そのあとしばら停車した後、
「この列車は姫路駅に臨時停車します。
この列車は先に出発しますが西明石駅の手前で停車します。
新神戸、新大阪へお急ぎの方は、次のさくら556号にお乗り換え下さい」
とアナウンスが入り、姫路駅に到着すると
ほとんどの乗客が降りて行かれた。
ガラガラになった車内を見て私は、さくら号なら8両編成なので
16両編成ののぞみ号から乗り換える乗客で満員になりそうなので
降りてからのことを考えて、3号車に乗り移ろうと考えた。
そして隣に座っておられた女性客にも「降りられますか?」と声を掛けたが
新大阪駅以東に行かれるためか降りないとのことだった。

すぐに発車しそうになかったのでいったん列車を降りると
ホームの中央辺りが乗客たちで群がっており、
降りた辺りにはほとんど人がいない。
8両編成の1号車付近まで行くが1~2人しか並んでいない。
これなら座席が確保できるかもしれないと思い、
さくら号を待つことにした。
やがて乗ってきたのぞみ36号は発車した。
すると姫路駅ホームの反対側の端に後続ののぞみ170号(岡山駅16:05発)
が到着すると、「この列車はいったん運転終了にします」と放送があった。
この放送を聞いてカラクリが分かった。

静岡~掛川間が大雨により運転を見合わせているために先が詰まっていて
順々に列車を止めており、新大阪駅止めのさくら号だけを走らせるということだろう。
ということは、さっきまで乗っていたのぞみ36号は西明石で停車したまま
運転終了してしまう可能性があり、あのまま乗っていた人たちは
以東どころか新大阪駅までも到着しない可能性もあるということだ。
やがてさくら号が到着する頃には後方には長蛇の行列が出来ていて驚いたが
全員乗り込んだ。乗車率は定員の150%という感じだろうか。
若い頃に新幹線で車内販売のアルバイトをしていたので大体分かる。
今はスーツケースがあるから昔みたいに200%まではいかない。
このさくら号は西明石駅でも臨時停車すると放送が入り
「お降りの方はお出口は左側です」とアナウンスが入ったが
停車予定のなかった西明石駅で降りる客などいる訳がない。
おそらく先に乗っていたのぞみ36号の残っていた乗客を乗せたのであろう。
その後、新神戸、新大阪と17:23に無事24分遅れで到着した。
のぞみ36号から計算すると43分遅れでの新大阪駅到着だった。

自宅で待っていた妻は新幹線が遅れていてさくら号に乗り換えて帰る
と伝えていたため心配していたようだが
なんか楽しそうに帰ってきたと話した。
鉄道ファンだからこういうアクシデントが起きると
さまざまな想像が出来、どうなっているのかのカラクリを判断し
適切な乗車が出来たことが楽しかったというのが「本音」である。
ニュースで泊まる所が無くて列車ホテル(新幹線)で宿泊した話を聞いて
羨ましくてたまらない私であり、
駅と駅の間で停車してしまい、線路を歩くシーンをニュースで見るたびに
このお金を積んでもさせてもらえない行為を死ぬまでに体験したいと思っている。

関西の避暑地 高野山③

2024-08-30 | 旅行記
少しだけアルバイトをしたことのある成福院の摩尼宝塔を参拝した。
お盆の時期にここにあるお位牌を拭かせてもらったことや
鶴田浩二さんと共に戦争に出兵された隊の方々が泊まりに来られていたのが
思い出される。
妻が筋向いの松栄堂でやきもちを買いに行くと、お店の方がお茶を入れて下さり
小休止することにした。
やきもちと言えば高野山に上がってくる途中にある花坂の上きしや有名で
今は高野店もあるけれど、薄っぺらい餡の入った柔らかいお餅は旨い。
あまりに美味しくて2個目も食べた。



訪れたのは、ろうそくまつりの日に合わせて訪れたのだが、以前来た時にはコロナ前
ということもあって大勢の参拝者が訪れ、帰りのバスや電車が満員だったため
少し早めに帰ろうとすることに決めて開始時間の1時間前に奥之院へと訪れた。
ろうそくまつりは始まっていなかったが、参拝者の方々は普段よりも多い。
高野山高校野球部と思われる学生たちがろうそくまつりのために
発泡スチロールに銀紙を巻いたローソク立てを道の両側に設置する作業をされていた。
「ごくろうさま」と声を掛けると「ありがとうございます」と行儀よく挨拶してくれた。
私たちの知らない所で彼らの御苦労の元で楽しませて頂いていることに感謝した。
同時に各所にあるテントでは、配られるろうそくに串を差す作業もされていた。

  

この奥之院には思い出がいっぱいある。
祖父が大阪市老人クラブに入っている時に「倶会一処」と書かれた塔が設立され
祖父の名前も刻まれており、よくお参りにも来たし、
酒を吞んで行くと霊が寄ってくると聞いて、わざと呑んだ勢いで夜間に訪れて
不思議な体験をしたこともある。

 

青森の恐山、滋賀の比叡山と並ぶ三大霊場に数えられ、それぞれ訪れたけれど
高野山だけは住んでいたこともあって愛着もあり、守られている感じがする。
御廟と呼ばれる高野山真言宗の開祖、弘法大師が今も生きたまま入定されている
お堂は参拝できたが、弘法大師と同じ深さで拝める地下へは入れず、
その後すぐにろうそくまつり準備のためにお堂も閉められた。
ギリギリ参拝できたことに感謝してバス停へと進む間も次々と参拝者は
すでに閉められた御廟に向かって歩いて来られていた。
ろうそくまつりが始まる頃にはバスに乗り、家路についた。


関西の避暑地 高野山②

2024-08-29 | 旅行記
   

山上に着くともっと涼しい。
日差しは暑いけれど、大阪の暑さとは全然違う。
ここからは奥之院行のバスで高野山の町へと進む。
女人禁制だった頃には女性がそこまでしか入れなかった女人堂や
徳川霊台、波切不動を通り、古めかしい高野山警察署の前の信号で止まる。
この警察署に生け花を生けに来ていたのが懐かしい。
そして千手院橋で降りる。
先ずは総本山金剛峰寺にお参りし、その続きで段上伽藍へと進む。
入口の道を歩くと、「この道は大蛇道と言って、蛇の背のようになっているので
雨が左右に流れやすくなっている」と観光客に説明したのを思い出した。
大伽藍に入ると、なぜか心が落ち着き、懐かしい気持ちになってくる。
林間学校の時に他校に通っていた塩尻くんに会ったことも思い出してきた。
ここでも日差しはなかなかの暑さだが、日陰に入ると林からの涼風がありがたい。

   

仁和2年(886年)に第二世真然大徳が光孝天皇の命を受けて、西塔が建立された。
現在の建物は、五度目の再建で、天保5年(1834年)に建立された。
六角経蔵は周囲に把手が付いてあり、それを持って台座を一回転すると、
一切経を読んだと同じ徳を得られると言われている。
私が高野山に居た頃は50cmくらいしか動かなかったが
今はベアリングを変えたのかあまり力を加えなくてもスッと回る。



住んでいた頃にははなかった中門を出ると、
高野山味噌本舗みずきに入る。この店は宝暦7年創業の老舗味噌本舗だというのに
高野山に住んでいた頃には知らなかった。
外観からはあまり冴えない店という印象だったように記憶している。
この店を知ったのは、2019年5月に放送された『おとな旅あるき旅
で三田村さんが訪れたのを見て「こんな店があったのも覚えていない」
と衝撃を受けて以降、一度訪れてみたかった店だ。
おそらく世界遺産登録されたのを機に改装されたのであろう。
試しに金山寺味噌を買って帰ったが、甘くて旨い。
今後の定番土産のひとつになりそうだ。
この店のオレンジジュースも魅力的で、周囲の店に比べても安い。
良心的なお店の印象を受けた。
この町に住んでいた頃の夏と言えば、馬車が走っていたが今は見なくなったなあ。
私たちは少し歩き疲れたので、高野山café雫に立ち寄ってアイスコーヒーを頂いた。
商品が届くや否やすぐに飲み干してしまい、撮影しておくのを忘れた。



そして訪れたのは胡麻豆腐の浜田屋さん。
大盛のオムライスに貝汁で有名だった上野屋さんの前を通り、
中華料理ミッチーの前を通り、浜田屋さんに着いた。
高野山には胡麻豆腐屋さんが何軒かあるけれど
浜田屋さんのが絶品で、他店には悪いけれど比較にならない。
店構えをあまり変わっていなかったが店内でも食べられるようになっていた。
妻は6個入2,200円の箱を2箱購入し、
そのためにクーラーバックや保冷剤も持ってきていて驚いた。
さらに驚いたのは誰かへのお土産ではなく、我が家で開けて
2日間で私には4切、妻は8切もペロッと食べてしまったことだ。

関西の避暑地 高野山①

2024-08-28 | 旅行記
高野山は和歌山県北部にある標高800mの盆地で
高野山という名前の山はない。高野山の町全体が
高野山真言宗の総本山金剛峰寺の境内とされる。
関西では昔から「10℃涼しい高野山」と言われ
小学生の頃には学校から林間学校で宿泊した。
関西随一の避暑地とは言っても、
ウィキペディアによると2014年7月26日には33.7℃という記録があり
地球温暖化に伴って気温も上がっているようだ。
一方、冬は寒く1981年2月28日には−13.4℃という記録もある。
その頃に高野山に住んでおり、雪が約2m降り積もった記憶もある。
高野山の冬と言えば、チェーンを履いたバスが走り、
シャンシャンシャンシャンとチェーンの音を響く印象が強く
当時はGWが開けるまではどこかしら雪が残っていたが
今は早々に溶けてしまうようになった。
また雨の多い地域でもあり、和歌山県と奈良県との悪い方になると
言われており、2017年10月22日には352.5mmの記録もある。

    

大阪では猛暑日が続き、基本的には毎日暑い中を出かけているが
不思議にも全然慣れるものではなく、毎日うんざりしてしまう。
たとえ半日でも信州、妙高高原で体験した涼しい夏を楽しみたくなって
午前中の予定を終えてから夫婦で出かけた。
南海高野線で終着の極楽橋駅を降りると、空気が違うのが分かった。
高野山が世界遺産になったせいか殺風景だった駅には風鈴が並べられ
涼やかにチリンチリンと上品に鳴っている。
ここからはケーブルカーで高野山上へと上がる。
ケーブルカーの車内はヨーロッパ系の外国人で満員になっており
日本人の方が圧倒的に少ない。
ここでも信州の時と同様に中国からの観光客は目立たない。
静かでありがたいけれど、中国バブル崩壊の影響だろうか?
駅員たちは乗り遅れないように早くケーブルカーに乗り換えるよう
アナウンスするため、気楽に写真撮影している私たちは最後に乗り込んだ。
ケーブルカーの先頭部分に乗務員が乗るスペースがあるが
その横の一番前のスぺ―スだけが空いていたのでそこへ乗り込んだ。
みんな乗務員スペースと勝手に受け止めて浅慮されていた様子。
ケーブルカーの一番前の席に座る乗務員が
運転手のように見えるけれど、あれは車掌さんで
運転手は山上の駅でケーブルの動きを調整するのが運転手さん。
外国人たちはスマホを上手に正面の窓の下に並べてビデオ撮影していた。

   

令和の時代

2024-08-27 | 考え方
電車に乗ると、みんな耳にイヤホンやヘッドホンを付けて
スマホを開き、小型扇風機を顔に当てている。
今では当たり前の光景なのだがどうも私には滑稽に思ってしまう。
スマホを見ながら歩いたら危ないと言われて久しいが
最近ではけっこうな高齢者も、若者に習って歩きスマホをしている。
一昔前なら高齢者が若者を𠮟りつける場面も見られたが
今や逆転していて、高齢者が若くなったのかどうかは分からない。

最近はたまに昭和の時代の生活を放映するテレビ番組もあり、
令和の時代では考えられないようなことをしていた昭和時代の映像を見て
若者に「意味が解らん」とか言いながら批判されることもあるが
当時はそれこそが最先端であって、当時を生きてきた者としては
プライドを傷つけられるやら恥ずかしいやらさまざまなことを思う。

例えば飛行機でも電車でもタバコが吸えたし、
病院の待合室でもふつうに吸えた。
映画館でも吸えたし、職員室では先生も吸っていた。
タバコを吸いながら仕事をすることも当たり前だった。

車の運転にはシートベルトも必要なかったし
ノーヘル(ヘルメットなし)でバイクにも乗っていた。

携帯電話もないから街のあちらこちらに電話ボックスがあったし
テレホンカードがない時代には、10円玉をたくさん集めてきて
3分ごとに投入しながら長電話していた。

・・・と、書き始めたらどんどん思い出してくるけれど
当時がそれが当たり前であって疑う余地などなかったが
令和の時代に思うと、馬鹿馬鹿しいことも多い。

そう思うと、今じゃ当たり前になっている
スマホにイヤホンと小型扇風機を持つ姿も
20年くらいしたら笑いものの種になっているかもしれない。