日本人が日本文字をどのようにつくったのか、漢字を柔らかくくずして草仮名にしたり、漢字の一部を取って片仮名にしていたともいわれる。なぜ紀貫之は日記を仮名の文章にしたのか。承平4年(934)、貫之は土佐守としての4年の任期をおえて京に旅立つ。12月21日から翌2月16日までの舟旅、55日にわたる。貫之はこの55日間の出来事を、1日ずつすべてを記録に残した。当時は「具注暦」というものがあって、貴族や役人は漢文で日記日録をつける習慣をもっていた。貫之もそのような漢文日録をつけておいて、それをあとから仮名の文章になおしたのかもしれない。あるいは道中から和文備忘録を綴っていたのか。なにゆえに「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」という擬装を思いついたのか。実際には『土佐日記』は仮名のみの表記だった。そんな風に松岡正剛氏は書いている。 . . . 本文を読む
水戸光圀が「大日本史」の編纂作業に着手したのは1657年、30歳、まだ水戸家の当主ではない時だった。光圀の父であり、家康の十一男であった徳川頼房がまだ健在の時だ。若君に過ぎない光圀が、当主である父の意向を無視して、そんな大事業を簡単に開始できるものではない。この「大日本史」の完成は明治も終わりに近い1906年(明治39年)だ。これは水戸藩の事業として行われていた江戸時代、大変な費用がかかり、そのため領民に重税を強いたといわれる。「国の歴史の編纂」という事業は、本来幕府がやるべきことで、徳川御三家とはいえ、水戸藩35万石の大名にとっては大変な事業だ。これには家康の密命があったといわれている。「大日本史」は後に、勤皇思想「水戸学」の源流となった。「水戸学」は、敢えていえば「絶対の忠誠の対象を天皇とし、日本人の考え方になじむように改変された朱子学」ともいえる。中国の朱子学の考え方を貫けば、天皇は絶対的忠誠の対象にはならない。水戸学はそれを改造したといえよう。 . . . 本文を読む
聖徳太子(厩戸皇子)は、622年、数え49才でなくなった。お墓は、大阪府叡幅寺の太子廟にある。(骨や棺は現存しない) 聖徳太子は、四天王寺や法隆寺を創建した人としても知られ、日本最初の公務員規定(十七条憲法)、官位制度(冠位十二階)、歴史書(国記や帝記)、中国(隋)への外交使節の派遣(遣隋使)などをした人としても知られる。これらのことは日本書紀に書かれている。当時の権力者は蘇我馬子で、聖徳太子がどこまでリーダーシップをとって、政治が出来たかは歴史学会でも疑問視されている。 . . . 本文を読む
フランスはカール大帝のカロリング朝が途絶えたあと、選挙でカペー家がフランスの王位についた。カペー家はパリ周辺の地域にのみ権力の及ぶ名目だけのフランス王であり、フランス国内には公国とか伯領といった事実上の独立国が多かった。この状況はドイツも同じ。弱いカペー朝を大きくする最初の王がフィリップ2世(位1180~1223)である。当時フランスの北岸にノルマンディー公国があり、この支配者は同時にイギリス王でもあった。フランス国内にあるノルマンディー公国は、実はイギリスの領土だった。 . . . 本文を読む
ドイツの偉大な文豪ゲーテの晩年に、彼と親しく交わった若き文学者エッカーマンが、その対話記録を書き残した。ゲーテは、自分の作品の創作の過程や、他人の誌や絵、音楽の批評、仲間との会話を通して、著者に詩作のなんたるかについて語る。人生のなかで、どのように仕事をなしていくべきか。詩や文学について多くを語りながらも、芸術一般、彼自身が関心を持ち続けた自然科学研究一般について多くの示唆を与えてくれる。日記形式なのでページ数は多いが、関心のありそうなところをめくって目についたところを読んでいくだけでも素晴らしい。年老いてなお、自分で創作意欲を失わず、若者をもりたてる教育者としてのゲーテ、自分の背中を見せつつも後輩たちを引っぱっていこうとするその言葉の数々は、現代に生きる若者にも勇気を与えてくれる。
「とにかく、とりかかれば心が燃え上がるし、続けていれば仕事は完成する。」 「愛する人の欠点を美点と思わない人間は、その人を愛しているのではない。」 . . . 本文を読む