murota 雑記ブログ

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徳川3代以後を安定させた人物

2012年06月16日 | 歴史メモ
 3代将軍徳川家光から徳川家一門の家号と三つ葉葵の家紋を使うよう勧められても、保科正之(ほしなまさゆき)は「保科」姓にこだわった。それは、2代将軍徳川秀忠の隠し子だった自分を、養子に拾い上げてくれた父・保科正光に対する深い感謝の表れであった。保科正之は23歳のとき、出羽国山形藩20万石に転封となる。正之が去った後、高遠藩の領民は「今の高遠でたてられやうか早く最上の肥後様へ」と歌ったという。肥後様とは正之のことで、「今の藩主で大丈夫だろうか。早く戻ってきていただきたいものだ」という意味だから、いかに慕われていたかがわかる。その後、正之は会津藩へ移封され、23万石・預かり領5万石という、実質の石高では御三家の水戸藩を上回る厚遇を受ける。正之は将軍家の血筋だから、この段階で姓を「徳川」または、一門の「松平」に改めてもおかしくなかった。 . . . 本文を読む

太宰治における戦前と戦後の変化

2012年06月04日 | 歴史メモ
 近代中国の文豪魯迅(ろじん)の本名は周樹人だった。周は1904年、清の留学生として仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。魯迅はもとから作家志望ではなかった。秀才の周でも医学の道は険しく、彼は刻苦し勉強に勤しんだ。解剖学を教えたのが藤野先生だ。藤野先生は周のノートを1週間に1度点検し添削をほどこして返す。ノートが赤く染まった。藤野先生は講義に関する記述の間違いだけでなく、文法の間違いも直した。そんな風に松岡正剛氏が述べている。 . . . 本文を読む

大化改新(乙巳の変)、意外な事実、天智天皇と天武天皇

2012年05月23日 | 歴史メモ
 645年乙巳の変(大化改新)これは、中大兄皇子、中臣鎌足等が、蘇我入鹿とその父である蘇我蝦夷を殺害し、政権を奪取した事件だ。当時、蘇我氏は日本で最大最強の豪族であり、日本を朝鮮系皇族支配から脱却させ、仏教を国教とする国造りをしていた。これに対し、2つの大きな反動勢力があった。一つは朝鮮系皇族、特に百済系・高句麗皇族、2つ目は八百万の神を信奉する勢力。前者の代表が中大兄皇子、後者の代表が中臣鎌足だった。 . . . 本文を読む

「乙巳の変」(いっしのへん)の裏側に迫る。

2012年05月22日 | 歴史メモ
「大化の改新」は単に「蘇我氏(そがし)」を滅ぼしただけの事件ではなく、蘇我氏滅亡後の政治改革を含めた全体を指す。蘇我氏を滅ぼしたという事件だけなら、「乙巳の変(いっしのへん)」といわれる事件になる。  飛鳥地方(奈良県)に疫病が流行、有力な豪族であった「物部守屋(もののべのもりや)」は「疫病の原因は『蘇我馬子(そがのうまこ)』が仏教を崇拝したがために日本の神がお怒りになったからだ」と言って豪族の「中臣氏(なかとみし)」と共に仏教を排斥し、仏教を信仰している蘇我氏との対立を深める。587年、物部守屋は蘇我馬子に殺され、物部氏は滅び、政治の権力は蘇我氏に集中する。蘇我氏の勢力は大王をも凌ぐほどに成長する。622年、推古天皇の摂政であり皇太子でもあった聖徳太子が49歳の若さで亡くなる。628年、権力者「蘇我馬子」の後押しで初の女帝となった推古天皇は次の皇太子を決めぬまま亡くなる。 . . . 本文を読む

サミュエル・ハンチントン著の「文明の衝突」

2012年05月12日 | 通常メモ
 ハンチントンは「西洋文明」と「イスラム・儒教コネクション」とは衝突すると予告した。ハンチントンは冷戦時代の戦略理論家で、ハーバードのジョン・オリン戦略研究所の所長であったが、その論文が「フォーリン・アフェアーズ」に掲載されたのは1993年の夏。論争も噴き出て、日本でもすぐに「中央公論」が特集を組んだ。その論文を膨らませたのが本書である。文明が衝突するという見方には怪しい点もある。文明はいつも衝突してきた。ホメーロスの『オデュッセイアー』が文明の衝突を扱っていたし、ヘロドトスの『歴史』もペルシア戦争を通した東方イラン文明とギリシア文明の衝突を主題にしていた。大航海時代後の東インド会社以降の歴史はつねに文明の衝突だった。侵略や介入を国家の横暴とか失敗と見ないで、あえて文明の衝突と見ようというのも怪しい。そんな風に松岡正剛氏が述べていた。 . . . 本文を読む